劇場が演じる--「四番倉庫」の照明

二騎の会「四番倉庫」の上演が続いている(15日まで、こまばアゴラ劇場)。

「四番倉庫」は、題名の通り、倉庫を舞台とした作品である。このように「設定」が極めて具体的な場合、舞台照明家としての課題はかなり明確で、それは、光と影で「倉庫っぽい雰囲気」を作る、ということになる。

しかし今回の「四番倉庫」の照明は、単純にそのように作られてはいない。

そもそも「倉庫っぽい雰囲気」とか「美術館っぽい雰囲気」というものを考える際、それはいったい、どの範囲までのことなのであろうか。

古典的な考え方としては、言うまでもなく、「舞台」をその範囲とする。たとえば「倉庫」という設定であれば、舞台上は倉庫だが、観客席や、表のロビーなどはいつもの劇場のそれ、そのままである。

いっぽう、現代にありがちな作り方として、舞台と観客席を合わせた「劇場空間全体」を対象とする手法がある。大きな劇場ではちょっと難しいが、こまばアゴラ劇場のような小劇場の場合、「舞台と客席を合わせた劇場空間全体」を、たとえば「倉庫」といった、ある一つの統一した雰囲気に作り上げる、ということが可能となる。

また、僕たちの劇団青年団は、その代表作「東京ノート」を、いくつかの美術館を会場にして上演している。これは、上述の「劇場空間全体」を対象としてある雰囲気を作る、という考え方に、さらに「一回ひねり」が加わった、面白い試みと言える。「東京ノート」は、台本上の設定が「美術館のロビー」である。その作品を、本物の美術館のロビーで上演してしまっている。しかし、実際にその公演を実現するには、美術館のロビーに手をつけずそのままというわけにはいかないのである。そこで演劇公演を実現するためには、美術館のロビーには元々は備えられていないもの、たとえば「観客席」や、あるいは「入場券販売窓口」などの、「劇場」としての機能を、どうしても仮設で作らなければならない。

さて、こういった様々な新しい試みにチャレンジしているプロダクションに関わる幸運を、僕はこれまで多数いただいているわけであるが、それら全体を通じて、僕個人が、以前からずっと疑問に感じていることが、一つある。

たとえば小劇場で「客席も含めた劇場空間全体」をある雰囲気に作る方法、あるいは「東京ノート」で美術館を劇場に仕立て上げる方法など、いずれも、たしかに、おおむね、全体として「それっぽい空間」はできる。しかし、その中にあって、作り手の力ではどうにもならない要素が、一つある、ということを常々感じているのである。

それは、「他の観客」の存在である。

ほとんど、ほぼ100%、演劇の公演において、上演中は客席を暗くする。なぜか。なぜ僕たち照明家は、演劇の上演中に客席を暗くするのか。その理由は、極めてはっきりしている。「一人の観客にとって、他の観客の存在が邪魔になるから」である。上演中は、他の観客の存在が邪魔になるため、他の観客が見えないように、客席を暗くするのである。

しかし、前述の「劇場空間全体の雰囲気」を作ることと、「上演中の客席を暗くする」ことは、大抵は矛盾してしまう。「劇場」という場所は、上演中は、舞台がとても明るく、そして客席はとても暗いという、とんでもなく特異な空間である。そんな空間は、劇場以外には、あり得ないのである。だからそもそも、客席を含めた劇場空間全体を、ある雰囲気に作り上げる、などという試みは、原理的に成功するはずがない。

しかし、それでおめおめと引き下がるのも、ちょっと悔しい。でも事実そうなのだから仕方ない。
...しかし

「空間全体をある雰囲気に」することに成功している例が、実はある。「ディズニーランド」である。ディズニーランドは、来場者全体が「この世界に来てしまった」ということを巧みに演出することで、違和感なく空間の雰囲気を作ることに成功している。ディズニーランドの来場者同士には、「この世界に一緒に来ちゃったね」という合意がある。だから、その空間演出にも、自然に合意することができるのである。

今回の「四番倉庫」の公演で目指しているのも、それであろうと、僕個人はとらえている。観客のみなさんが「四番倉庫」に連れてこられてしまった。その雰囲気や空気を、どうやって作るか。観客同士に、どうやったらその「合意」を共有してもらえるか。どうすれば、一人の観客が、「他の観客」を、邪魔だと感じないようにできるか。

それは、リアルな「倉庫」を写実的に再現しても、おそらくうまくいかない。こまばアゴラ劇場が「倉庫」ではないことは、観客全員が知っているわけで、いくら「倉庫っぽい」雰囲気を作ったとしても、それは、「ああ、上手に倉庫っぽくなってるね」という感想を持つだけで、そこにはリアリティは感じられないだろう。

そこで、僕は、もう一回、ひねって考えてみた。こまばアゴラ劇場を「倉庫に見せる」ことは、真のリアリティとしてはできない。しかし、だったら、「倉庫を劇場にして公演する」ということ全体を、アゴラ劇場を使って演じる、ということはできるんじゃないか、と。

「東京ノート」は、美術館のロビーを劇場化して上演を行なったのであった。

「四番倉庫」は、空き倉庫を劇場化して上演を行なう、ということ、その全体を、アゴラ劇場を使って演じてみる、ということを試みている、と僕はとらえている。

「東京ノート」を美術館で上演する場合、美術館には元々は備えられていない、「劇場の要素」を仮設で作る必要があった。

「四番倉庫」においては、「仮に倉庫で演劇の上演をするとしたら、劇場の要素として何を仮設で作らなければならないか」を考え、それを「仮設で作るという行為」、その全体を「演じて」いるのである。

こまばアゴラ劇場には、元々客席がある。それをわざわざ分解し、まず「倉庫」空間を作る。そこに、「倉庫で演劇をやるならこういう感じかな」という、仮設の舞台と客席を、わざわざ作る。もちろん照明もである。その空間全体が「演技」なのである。そのような、「空間全体が演じている」場所なら、観客同士も、「こんな所に来ちゃったね」という感覚を、共有してもらえるのではないだろうか。「四番倉庫」は、そのような試みであると考えながら、照明を作った。

僕個人的には、「四番倉庫」は、演劇のリアリズムを信じられなくなってしまった未来の人類が、その果てに、それでも演劇を求めざるを得ないとしたら、いったいどのような演劇を作ろうとするのか。それを想像し、それ全体を演じた、「未来の演劇の形」だと思っている。

今回の「四番倉庫」は、まあそんなふうにとらえて、取り組んでみた。しかしそんな僕の真意の具体的なところは、観客の皆さんに伝わる必要は、もちろんない。「この空間って、なんだか居心地が良いな、or、悪いな」というふうに、どっちでも良いので、なんとなしの「ずれ」を観客に感じてもらえれば、僕個人的には、試みは成功だと思っている。


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