舞台照明デザインの考え方

〜 悩める若き照明デザイナーのために 〜

2003.8.22

僕が照明を始めたのは1984年だから、もう19年も舞台照明をやっていることになる。最近では、僕よりも若い照明デザイナーも、業界でずいぶん活躍するようになってきた。もちろん、照明デザイナーとしては僕はまだまだ若輩だが、年齢ばかりはオヤジ世代に足を踏み入れたのだろう、悩める若き照明デザイナー達の仕事ぶりを見て、どうしてもアドバイスのようなことをしたくてしょうがなくなる時がある。そのオヤジ心を抑えきれずに、生意気にも「照明デザインの考え方」についての文を書いてしまったのが、これである。ここに書いたことを、笑うも自由、怒るも自由。若い照明デザイナーであるあなたが、ここに書いてあることに従おうが逆らおうが、僕には関係ないし興味もない。ただ、岩城保という人はこんなことを考えながら照明をつけているのか、ということだけでも、伝えることができれば幸いである。


若き照明デザイナーが照明をやっていて、色々と悩むことが多いことは想像に難くない。僕も若い頃はよく悩んでいた。演出家から「このシーンの照明って、これ?」という屈辱的な質問をされて傷ついたことは、みんな一度や二度ではないはずだ。自分が一生懸命作り上げた照明が、演出家の好みと全く違っていて全部作り直しになったり、演出家に言われた通りそのままの照明を作ったつもりなのに「全然違う」と言われたり、照明デザイナーはいつも悩み、いつも傷つく。その上、「舞台照明デザインは感性が重要だ」とか言う人がいるので、照明デザイナーは、自分の感性が劣っていないことを信じて、また、劣ってないことを証明するために、照明の色々なアイデアを、必死に演出家に提案しようとする。自分が最初に作った照明の良さが一度で伝わらないことがあるのは、まあ仕方がない、ならば他にもいくつかアイデアを提案するから、せめてその中の一つを採用して欲しい。どれ一つとして採用されず、演出家から照明の逆指定を受けるような恥辱は、何としても避けたい、と照明デザイナーは悩む。

若いデザイナーが悩むのは「良い照明を作りたい」という一心からである。若いデザイナーほど、「作る照明によって作品の出来上がりが大きく変わる」と思っているから、「良い作品にするために、良い照明を何とかして作らなければならない」と、苦悩するのだ。そして、いざプランを始めてみると、自分が知っているいくつかの照明技法の中から、「これにしようか」「あれにしようか」とアイデアばかりは一応出るけれど、その中のどれにしたら良いのかなかなか決められない。演出家に相談してみても、「実際に見せてもらわないとわかんないなぁ」とか言われてしまう。たまに、プランが最初からピタリピタリと迷わず決まったと思ったら、劇場入りして演出家に見せた時に「雰囲気が基本的に違う」と全否定されたりする。そんな失敗を若いデザイナーはよくするし、僕も若いころは何度もそのような失敗をした。

こういう失敗がなぜ起きるのか。実は明確な理由があるのだ。簡潔に言ってしまうと、これらの失敗の理由は、「良い照明を作ろうとしている」ところに原因がある。こういう失敗をする人は、「作品の照明には無数の可能性があり、それを作る過程にも無数の可能性があり、その無数にある可能性の中で最も良い道を進み、最も良い結果に至ろう」と考えている。つまり、最初に「無」のスタートラインがあり、そこから「良い照明」をだんだんと構築し、最後に完成に至る、という考え方をしているのである。そういう考え方を「あたりまえ」だと、あなたは思うだろうか? しかし、この考え方は、実は誤っているのだ。「誤っている」というのは言い過ぎかも知れないが、少なくとも、あまりよい考え方とは言えないと、僕は思う。こう聞いて、ちょっと驚く人も少なからずいるだろう。


「良い照明を作ろうとする」ことが誤っているのなら、じゃあどう考えればよいのか。僕の答えを教えよう。照明デザイナーがやるべきことは「良い照明を作る」ことではなく、「既に決まっているはずの照明を探索し、発見し、実現する」こと、なのである。こんなことを書くと、「え、だって、照明はデザイナーがデザインしない限り何も無いし、何も決まっていないじゃないか」と、あなたは反論するかも知れない。若いデザイナーがそう思うのは無理もないことである。デザインをしなければ、たしかに照明仕込図は白紙だ。何もプランしなければ劇場は作業灯である。なのに「既に決まっているはずの照明」とは、いったい何を言っているかわからない、という人もいることだろう。でも、「作る前から既に決まっている」という例は、冷静に考えれば実は結構あることなのだ。実例をあげて説明しよう。

たとえ話として、みんなでカレーライスを作っているところを想像してみて欲しい。中に一人、料理全体を指揮する人=シェフがいて、これが演出家に相当すると考えてみよう。照明家であるあなたは、カレーの材料となるジャガイモやニンジンを切る係だ。まず最初にジャガイモを切るとする。あなたはカレーに入れるジャガイモを、どのような形、どのような大きさに切るだろうか。きっと自分がこれまでに食べたカレーライスをイメージして、それに基づいた形・大きさにジャガイモを切ろうとすることだろう。大きめの乱切りにするか、大家族の出身ならやや小さめの角切りにする人もいるかも知れない。いずれにしても、ジャガイモの切り方なんて、そう何種類もあるもんじゃない。しかし、いざあなたがジャガイモを切ろうとした瞬間、シェフ(演出家)からこんなダメダシがあったとする。「ジャガイモはそうじゃなくて、細切りにして! 太さは3ミリぐらい!」

カレーに入れるジャガイモを、3ミリの細切りにしろ、と言われて、あなたはどう反応するだろうか。「そんなのいやだ!」と言ってあくまで我を通すだろうか。賢明なあなたはそんなことはしない。シェフの言うことだから、もちろん従うし、シェフの言葉に従いつつも、「いったいどういうカレーライスを作ろうとしているんだろう」と、この変わったカレーの出来上がりの状態をイメージしようとするだろう。シェフに「どんなカレーになるんですか?」と尋ねるかも知れない。そうして、細切りのジャガイモが入った風変わりなカレーライスの出来上がりの状態やその味を、想像してみようとするんじゃないだろうか。食べたことのないものの味を想像するのは少し難しいかも知れないけれど、もしうまくイメージがつかめて、しかもそれが美味しそうだということに納得できれば、あなたは今からやろうとしているジャガイモの細切りを、楽しんで行うことができるだろうし、上手にできるに違いない。

ここで、あなたがあくまで最初の自分のカレーのイメージに固執し、シェフとの妥協点として「ジャガイモは3ミリではなく、1センチの太さに切りましょう」などと提案するとしたらどうだろうか。そんな提案は、あまり意味がないということはおわかりいただけると思う。「3ミリの細切りのジャガイモ」と言われた時点で、今から作られようとしているカレーは、自分の知っているカレーとは基本的に違うものなのだ、ということを受け入れなければならないことはおわかりだろう。つまり、ここの場では自分が知っているカレーだけを元にジャガイモの切り方を議論していても駄目だし、自分とシェフの中間の妥協点を見つけようとしても無駄だと言うことだ。今から作ろうとしているカレーの味は、シェフだけが知っており、シェフの頭の中には、その明確なイメージがあるはずである。この「シェフには明確なイメージがあるはずだ」ということを、まず受け入れなければならない。そして、その「シェフのカレー」に入れるジャガイモは、3ミリの細切りにするということが最初から決まっている

そのことが納得できれば、次にあなたがニンジンを切ろうとするときも、もう自分の知っている切り方にはこだわらないだろう。「シェフのカレー」のニンジンの切り方は「どうすれば良いのか」をシェフに尋ねるだろうし、あなたがその時点で既に「シェフのカレー」の出来上がりの状態やその味をうまくイメージできていれば、シェフの指定する切り方からさらに発展させて、シェフ自身も思いつかなかったような、「もっと美味しそうな」ニンジンの切り方をシェフに提案することすらできるかも知れない。あなたが提案した新しいニンジンの切り方が「シェフのカレー」に採用されれば、それによって作られるカレーは、「シェフのカレー」に似ているけれど少しだけ違う、まだ誰も食べたことのない、新しいカレーとなる。新しい未知のものだけれども、二人の頭の中には共通する美味しいカレーのイメージがある。つまり、新しいまだ見ぬカレーのイメージが共有されている。そして、そのカレーのためにはジャガイモやニンジンをどのように切ればよいか、二人ともわかっていて、それに確信を持っている。まだそのカレーは過去に一度も完成したことがないのに、ジャガイモとニンジンの切り方はこれしかないと、二人の中では既に決まっているのである。

話を舞台照明に戻そう。最初に僕が述べた「既に決まっているはずの照明」とは、この「既に決まっている野菜の切り方」に相当する。若い照明デザイナーには奇異に思えるかも知れないが、稽古場やスタジオでリハーサルが繰り返されている時点で、その作品の照明は実は「既に決まっている」のだ。作品のイメージが明確であればあるほど、その作品の照明は劇場に入る前から「既に決まっている」。作品の完成イメージが弱い場合であっても、どんな照明にするべきかの基本方針ぐらいは最初から決まっている、と考えるべきである。もちろん、先ほどの例でニンジンの切り方が新しくなることによって新しいカレーが生まれたように、「既に決まっている」と言ってもそれは変化し得るものである。しかしその変化は、流動するような不安定な変化ではなく、常に「新しいものに決まり直す」という変化、言うなれば「更新」である。

カレーの例でシェフが最初から「ジャガイモは3ミリの細切り」と決めていたように、舞台作品においても、稽古やリハーサルが開始され作品が完成することが約束された時点で、その照明は既に決まっている。既に決まっているその照明が、照明家によってうまく「探索され、発見され」、そしてよりよい形に「更新」されていくことによって初めて、その作品の照明が成功するのだ。舞台照明は、照明デザイナーの感性のみによってゼロから作られるべきものではない。照明は作品の中に最初から内在するものであり、それを「発見」して実現させるのが照明デザイナーの役目である。これは、若いデザイナーにはなかなか受け入れがたいことかも知れない。また、「作品に最初から照明が内在している」という考え方を、やや非科学的に思う人もいるかも知れない。しかしこれは、「情報は対象の中に元々あり、人間によってそれが探索され発見されることで具現化する」という新しい認知科学の考え方「アフォーダンス理論」の応用であり、決して非科学的ではないし、精神論でもないのである。

若いデザイナーがなぜ失敗するかと言えば、この「既に決まっている照明」を探ろうとせず、「新しく自分で作った照明」だけでやろうとするからである。それは先ほどのカレーにたとえるなら、最初からジャガイモを角切りに切って持参しておいて、「どんなカレーにしますか」と言うようなものである。あなたがジャガイモを角切りにして持ってきてしまった時点で、それはシェフのカレーとは「全然違う」。そこには、「ジャガイモの角切り」を「素材」ととらえるか「間違った作りかけ」ととらえるかの食い違いがある。つまり、照明家が自分で作った照明は、必ずしも作品作りの素材とはならない、ということだ。

若いデザイナーが照明を自分で作りたがるもう一つの理由として、まだ照明の技術レベルが低いために「自分の得意な照明技法」に対する愛着が強すぎるということがある。照明の新しい技法を自分で発見したりすると、ついそれを使いたくなるものである。しかし、そんなに汎用性の高い照明技法なんて、そうそうあるものではない。たしかに、自分で見つけた技法は、使いたくなるのが人情である。その気持ちはよくわかる。でもそれにとらわれては駄目。どんなに得意な技術でも、それが必要とされない限り、絶対に表に出してはならない。カレーを作る調理場で、大根のかつら剥きや、魚の三枚おろしを披露してはならない。そんなことをしてしまったら、気の弱いシェフならあなたの顔を立てようとして、自分のカレーに大根のかつら剥きをなんとか使えないものか、などと悩んでしまうかも知れない。しかし、それでは全てが台無しである。自分の得意とする照明技術を見せびらかす行為は、たとえそれがどんなに美しい照明であっても、無駄になるばかりか、作品をぶち壊しにしてしまう可能性すらある。見事な大根のかつら剥きが気の弱いシェフのカレーを台無しにしてしまうように、である。照明家はまず、作品には「既に決まっている照明」があることを受け入れて、それを探索することからスタートしなければならないのだ。


さて、だとすると、照明家は演出家や美術家と事前に綿密な打ち合わせをして、どんな照明を作るべきかを話し合い、それを実現させればよいということなのだろうか。いや、残念ながら話はそう簡単ではない。料理の場合なら、シェフは自分でも野菜を切ることができるし、それを煮たらどういう状態になるかを想像することもできるから、事前にカレーの作り方を話し合っておくことはたしかに有効だろう。しかし、演出家や美術家には照明の技術は基本的には無いと考えなければならない。彼らは「完成した照明」のイメージを持つことはできても、その照明の「材料」や「作り方」はわからないのだ。これを料理にたとえるなら、食べたときの食感や味のイメージは明確にあるが、どういう材料をどう料理すればそのような味・食感になるかはわからない、というのと同じである。演出家は、照明家の作った光に対して、「もっと塩を強く」とか「甘みより酸味を中心に」とか注文をつけるかも知れない。しかしそれはあくまで、味わったときの感想を元に言っているに過ぎないのであり、実際の調味料の分量の指示ととらえるべきではない。演出家が「塩を強く」と言ったら、それは出来上がりの味として「もっと塩味を強く感じる出来上がりに」という意味であり、実際の調味料としての「塩」を加えるかどうかは、照明家であるあなたが判断すべきことである。たとえば、塩を加えるよりも、煮汁を煮詰めたほうが演出家の好む味になるのかも知れない。

演出家はときおり、照明の技術は無いくせに照明についてやけに具体的な注文をすることがある。しかしそれはあくまで出来上がりのイメージだけを元に注文を言っているととらえなければならない。だから、照明への指示がいかに具体的に見えようとも、例えば「もっと青を強くして欲しい」とか、「あのオレンジの照明だけにして欲しい」とか言っていても、それにそのまま従うことが演出の意図に沿うとは限らない。この点には十分注意する必要がある。演出家から直接具体的な指示を受けた場合、照明家のやるべきことは、その指示にそのまま従うことではなく、その「指示を出した真の意図」を分析し、その指示の元となっている演出家の頭の中のイメージを「割り出し」て、それを自分でも理解し、共有し、そしてそのイメージを実現するための照明を実行することである。たまに、若いデザイナーが演出家から何か照明のことを具体的に指示されて、それを自分では納得できないままに「演出の指定だから」とそのまま受け入れてしまう例を見ることがあるが、それは照明デザイナーの一番重要な責務を放棄する行為である。イメージを共有する努力を常に怠らなければ、「演出の指定で仕方なく納得できない照明をつける」といった状況におちいることなど、あり得ない。


照明デザイナーは、作品が完成するまで、演出家とイメージを共有する努力を絶え間なく続けていなければならない。それを「難しいこと」だと思うだろうか。たしかに最初は難しいと感じるだろう。照明家の仕事はまるで、自分では全く料理ができないくせに味だけ厳しく指定するシェフに従って料理を作るようなものだからだ。しかし、冷静に考えれば、そんなシェフを満足させるためにだって、色々なアプローチがあることに気づくはずだ。シェフが求めている味のイメージをすぐにつかめなければ、シェフ自身が他にどんな食べ物が好きかをシェフに尋ねてみてはどうか。逆に、嫌いな食べ物を尋ねてみることも大きな助けになるに違いない。他にも出身地や年齢など、味の好みを左右する要素はたくさんある。それらをヒントにしながら、試行錯誤も繰り返しつつ、シェフがイメージしている味を「探索して」いけばよいのだ。そして幸運なことに、僕たち照明家は何よりも重要な指針を最初から持っている。その指針とは、「求められている味は、きっと美味しい」ということである。美味しくない料理を作りたがるシェフがいないように、演出家たちも、「良い照明」をイメージしているに決まっているのだ。そう信じることが大事である。

だから、どうせ演出家に質問するのなら、照明のことだけではなく、作品世界のことを尋ねよう。シェフに好みの食べ物や出身や年齢を尋ねたように、である。例えば室内劇なら、舞台の設定となる季節や時刻や場所は、みんないつも尋ねているだろうし、台本にも書いてあるだろう。じゃあ、その舞台となっている建物の外壁は何色だろう? 隣に住んでいる人はどんな人? その町の人口は? そういったこと、一見舞台の設定とは無関係に思えるような質問でも、演出家の頭の中にあるイメージを「割り出す」ためには大いに役立つ。とにかく、あらゆる手段を使って、演出家の持っているイメージを探索しよう。イメージを共有する努力を最初から怠らなければ、少なくとも、劇場に行ってから「全然違う」と言われてしまうような事態にはならずに済むはずだ。そしてイメージの共有さえうまく成功すれば、それを新たなスタートラインとして、様々な照明の可能性を少しずつ提案しながら「更新」を進めることが可能となる。

それと、若い照明デザイナーには、「演出家の照明感性を信じ、尊重する」ということを提案したい。料理を作ることができない人にも味の感性があるように、照明を仕込むことができない演出家も、照明のすばらしい感性を持っている、と考えるべきである。演出家の感性をまず信じ、尊重して受け入れることが大事だ。演出家と照明家とで照明の感性を競い合うのは全く意味がない。演出家と自分とで、考える照明が異なっていたからといって、それを感性の違いだと考えるべきではない。作り上げた照明が演出家の意図と異なってしまったとすれば、それはイメージの共有がまだ不十分だからである。演出家がカレーライスを作ろうとしているところで、ハヤシライスを作ってしまったようなものだ。あなたのハヤシライスはたしかに美味しいだろう。しかしそれは演出家の求めるものではない。そこに気づいたら、いかに上手にできたハヤシライスであっても、ためらわず捨ててしまおう。捨てる勇気を持つことはとても大事なことである。いかに苦労した結果であっても、捨てるべきものはいさぎよく捨ててしまおう。幸いなことに、照明デザインは食べ物と違って、捨てても決して無駄にはならない。


照明家には技術がある。だからこそ、自分の最初のイメージに固執してしまわないよう、心を十分に開いて、柔軟な心持ちで、何でも捨てられる勇気を持って、現場にのぞまなければならない。あなたには誇るべき、立派な照明技術がある。演出家にも立派な照明感性があると信じようじゃないか。演出家の感性を信じ、それにあなたの技術を合わせれば、きっと照明を成功に導くことができる。他者と照明イメージを共有し、それを自分の技術で実現させる、それが照明デザインの本当の醍醐味だと僕は思う。他人の感性を信じて受け入れるのは、たしかに難しいし、勇気がいることだ。でもそれがうまく成功すれば、完成したときの達成感は無上のものになる。それは「一人の力ではできない作品を作り上げた」という達成感だ。それが無ければ照明なんてつまらないと、僕は思う。あなたはどうだろうか。少なくとも僕は、僕一人だけでは決して作ることのできない照明を、いつも目指している。


岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp

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