オリジナリティの在処ありか

〜 続・悩める若き照明デザイナーのために 〜

2006.1.2

前に、若い照明デザイナーのためにと称して、「舞台照明デザインの考え方」という文を書いた。その中で、照明デザイナーがやるべきことは「良い照明を作る」ことではなく、「既に決まっているはずの照明を探索し、発見し、実現する」ことだと述べた。それを読んで、素朴に次のような疑問を持つ人がいることがわかった。

素朴な疑問:照明が「既に決まっている」とすれば、舞台照明デザインは、誰がやっても同じ結果になるのではないか。

たしかに、既に決まっている照明を見つけて実現するのだから、誰がやっても同じ結果になるのではないか、と考えてしまいそうになるのは、なるほど理解できる。しかし、もちろん実際はそんなことはない。上記の素朴な疑問は、誤解から生じるものである。既に決まっていることをやるのであっても、行う人によって違う結果は生まれるのだ。いやむしろ、一見同じことを行なう中にこそ、「オリジナリティ」というものの源がある。ここではそれを説明してみようと思う。


まず、ちょっと根本的な疑問に立ち戻ってみよう。そもそも、高く評価される照明とは、いったいどういうものだろうか。それがわかれば苦労は無いって? たしかに、いきなりそれを考えるのは難しいから、じゃあ逆に、高く評価されない、つまらない照明、良くない照明とはどういうものかを考えてみよう。そうするとどうだろう。たとえば、どこにでもありふれたような、良くありがちな照明は、高い評価は得られない、ということはわかるだろう。ありふれているということは、そこに「オリジナリティ」が感じられないということだ。そういう照明は、悪くは言われないまでも、高く評価されるということもないに違いない。じゃあ逆に、ありふれていなければ良いのかと言うと、そうとばかりも言えない。誰も理解できないような、あまりに常識を欠いた照明も、高い評価は得られない。たとえば、ぜんぜん真っ暗で見えないとか、シーンに不釣り合いなエキゾチックな原色の照明とか、なぜそんな照明にするのか意図が全く理解できない、つまり何を考えてんだかわかんない、というような照明だって、やはりダメだということは言えるだろう。

つまり、誰でもがやりそうな照明も評価されないし、誰にもわからない照明も評価されないということになる。ということは、論理的に考えて、高く評価される照明は、どっかその中間にある、ということだ。結論を言ってしまえば、要するに、他の人があまりやりそうにない感じで、しかし、その意図が他の人にも何となくわかる、そんな照明が高く評価される。あなたが今まで見た中で、あなた自身が高く評価した照明は、誰のどんな照明だっただろうか。その、素晴らしい照明のことをちょっと思い出してみて欲しい。それは、そのプランナー以外の人はやりそうにない(あるいは、やれそうにない)感じで、しかし、そのプランナーの意図が、あなたにも何となく伝わる、そんな照明だったんじゃないだろうか。


だとすると、これで目標だけはわかった。あなたが作るべき照明は、あなた以外の人がやれそうにない感じで、しかし、あなたの意図が他の人にも何となく伝わる、短く言えば、「他にはないのに意図が伝わる」、そんな照明だ。そういう照明が作れれば、それは高く評価されるに違いない。

しかし上記のようなことは、ある程度照明プランで苦労した経験のある人なら、わざわざ言われなくても何となく感じていることだろう。みんな、「他にない」と「伝わる」のバランスで苦労するのだ。「他にない」が勝ち過ぎれば他人にとっては「意味がわからない」照明になってしまうし、「伝わる」が勝ち過ぎれば、ありふれた陳腐な照明になってしまう。そのバランスをとるのが難しいからみんな苦労する。じゃあ、素晴らしい照明を作る人は、いったいどうやってそのバランスをとっているんだろうか。どうすれば「伝わるけど他にないもの」を作れるんだろうか。


答えを教えよう。実は、そう悩むこと自体が、既に誤りなのだ。なぜなら、「オリジナリティ」というものは、どんなに悩んで頭で考えても、絶対に生まれないものだから。ちょっと驚く人もいるかも知れないが、そもそも、人間の「意識」というのは、オリジナルなものを生み出す機能自体を持ち合わせていないのである。意識というのは、感覚器から入ってきた情報と記憶されている情報を比べて、ある種の解釈を経て、それをまた記憶にしまい込む、というのが基本機能だ。それをいくら繰り返しても、本当の意味のオリジナルには決して至らない。いくら悩んだり考えたりしても、それが意識的である限り、オリジナルなものは絶対に生まれない。意識の中には、結局のところ、解釈されたものしか入っていない。この「解釈」というのを「言語化」と考えても良い。意識の中には、言語化可能なものしか入っていない。言語化可能なものをいくら組み合わせても、真のオリジナリティにはならない。その理由は、真にオリジナルな表現とはどのようなものか、それを思い浮かべてみればわかる。そう、オリジナリティとは、言語化が不可能なものであるからだ。

だったら、オリジナリティ=自分だけが持っていて他人に伝わり得るもの=は、いったいどこに生まれるか。答えは、意識の外である。つまりオリジナルなものは無意識に作られる。無意識ということはすなわち、驚くなかれ、それは本人には自覚できないのである。だからつまり、あなたがあのとき見た、あの素晴らしい照明は、あのプランナーが頑張って素晴らしくしようと思って作ったものではなく、本人は自覚せずに、無意識に作っちゃったものなのである。

だから、良い照明を作ろうと意識的に努力すること自体が、そもそも無駄なのだ。良い照明は、自分が自覚することなく、勝手にできあがる。自覚していないから、作った本人は特別に「良い」とは思っていない。ウソだと思ったら、あなたが尊敬するプランナーに尋ねてみると良い。どんなに素晴らしい照明も、作った本人は、出来た時点では「自分は普通にやっただけ」と思っていたりするものだ。「良い」という評価は、常に後から、他人によってもたらされる。


ならば、良い照明を作るためにあなたが努力できることは、はたして何もないのであろうか。それも違う。やるべきことはもちろんある。それは、普通のこと、当たり前のことを、きちんとやる、ということである。何も特別なことをする必要はない。普通のこと、あるいは当たり前のことだけをやっていれば良い。ただし、それらをただ漫然とやるのではなく「きちんと」やらなければならない。「きちんと」と言われても何のことだかちょっとわかりにくいだろうから、別のジャンルに話を移して考えてみよう。

たとえば、ピアノを素晴らしく上手に弾ける人、というのがいる。そういう人は、いかにしてピアノが上手になったか。「どうすればピアノが上手になるか」と悩んだだろうか。あるいは考えただろうか。もちろん多少は悩んだり考えたりしただろう。でも、いくら頭で悩んでも考えても、ピアノは上手にはならない。ピアノを上手に弾けるようになりたければ、練習するしかない。じゃあその練習はどうやるか。自分だけの特別な弾き方を追い求めるだろうか。いや、そんなことは普通はしない。むしろ、先生や先輩の弾き方を真似したりして、基本、すなわち「標準的な弾き方」を、まず習得しようとする。これは何も楽器演奏に限らない。スポーツや料理など、およそ「身体の技術」を必要とするものは、まず先生や先輩の真似から始める。そうやって、「標準的な技術」を身につける、というのが基本である。そして、実を言えば、それが全てである。ただし、「標準的な技術」といっても段階がある。料理の包丁で言えば、キャベツの千切りやタマネギのスライスのような基本的なものから、魚の三枚おろしや、あるいは大根のかつらむきやハモの骨切りのような高度なものまで様々あるが、高度であってもそれが「標準的な技術」であることに変わりはない。

僕自身は、多少の料理はするけれど、大根のかつらむきはできない。でもプロの料理人なら大根のかつらむきは「普通」出来るものである。つまり、人によって「普通」は異なるものだ。プロにとって普通のことは、素人にとってはちっとも普通ではない。別の言い方をすれば、技術が上達するにつれて「普通」の範囲はどんどん広がっていくということだ。その果てに、技術が極めて高い水準に達すると、他人ではとても真似のできないようなことを「普通に」やれるようになる。そうやって、本人と他人とで「普通」の意味するところがどんどん「ずれて」いく。このずれこそが、オリジナリティの正体なのである。

天才と言われるピアニストも、天才といわれるスポーツ選手も、天才といわれる料理人も、みんな、特別なことをやれるから天才なのではなく、普通の、標準的なことを素晴らしく行えるからこそ天才と言われるのだ。凡人が天才にあこがれるのは、「自分もあんなことができたらなぁ」と思うからだ。言い換えれば「誰にでも出来る可能性があるが、普通の人にはなかなかできない」ことをやれるのが天才である。やっていることは、つきつめれば普通のことの延長なのである。じゃあ、その天才同士を比べてみよう。天才同士はみな同じだろうか。二人の天才ピアニストは、全く同じ演奏をするだろうか。二人の天才料理人は、全く同じ味の料理を作るだろうか。もちろん違う。才能がある人ほど、個性的で、オリジナリティに溢れている。普通のことの延長をやっているだけにもかかわらず、天才は何ともいえない個性を発しているものだ。

普通のことの延長なのに、なぜそこに個性が感じられるようになるのか。それは、人間の身体が一人一人みんな少しずつ違うからである。人の感覚器や筋肉は、一人一人違う。同じものを見ても、同じ音を聞いても、同じ食べ物を味わっても、そこから受け取るものは人によってほんのわずかずつ異なっているはずだ。だから、同じ演奏、同じ運動、同じ料理を再現しようとしても、本当の細部のところでは、人によってどうしても異なるものになってしまう。その、身体に起因するわずかな差異、これこそが、オリジナリティの正体である。身体に起因するわずかな差異は、本当にわずかだから、高い技術を持っていないと誤差に埋もれてしまう。技術が究極まで研ぎ澄まされ、誤差が僅少になり、そこに、身体に起因する解消不可能なわずかな差異がかいま見えたとき、それがオリジナリティとなるのだ。


話を照明に戻そう。誤解している人もいるかも知れないが、照明デザインだって「身体的技術」の一種だ。だから、標準的な技術を身につける努力をすれば良いのである。頭でいくら悩んでも考えても、照明デザインは上手にはならない。練習をしなければうまくならない。練習して練習して、普通の照明をきちんとやれるようになろう。特別なことをやろうと悩むのは無駄なことだ。あなたが「普通だと思う」ことを、高い精度でやることが大事なのだ。あなたがやるべきことは、要するに技術を磨くこと、それだけである。最初はありふれた照明でもかまわない。他人の照明デザインの真似でもかまわない。あなたにとって「普通だと思える」ことを、上手にやろう。それだけやっていれば十分だし、それ以外にやれることはない。技術が磨かれ、その精度が十分に高まったとき、あなたはきっと、他人にとってはとても普通じゃないことを「普通」に感じるような感覚の持ち主になっている。そのあなたが作る「普通」の照明は、他人にとってはオリジナリティ溢れるものとなるだろう。

ここで、こんな疑問を持つ人がいるかも知れない。

疑問:そうやって将来現れてくる私のオリジナリティは、しかし果たして、本当に評価に値するものなのだろうか。

自分の身体に起因するオリジナリティは、必ずしも他人から高く評価されるものではないかも知れない。だとすれば、今努力して技術を磨いても、無駄なんじゃないだろうか。それは、ひょっとするとその通りかも知れない。でもそんなこと言ったら、音楽だってスポーツだって料理だって同じことだ。みんな、自分がそれで成功するという保証がないままに、しかし、成功を信じて努力を重ねている。照明デザイナーを志す者も、自分の成功を信じて努力する以外に方法はない。

だけど僕は、どんな人間でもどこかに魅力があるように、誰が作る照明でも、磨き上げればきっとそれなりに良いものになるはずだと思っている。そう信じることができなければ、照明デザイナーをやめるしかないじゃないか。授かったこの身体、そのオリジナリティを信じよう。僕たち照明デザイナーができることは、自分の身体を信じて、頭にある照明イメージを、ただひたすら正確に、緻密に、照明機材を使って再現すること、結局それだけだ。


だから、照明を作る時は、ちょっとでも変だと思うところはきちんと直し、安易に妥協してはいけない。現場に行くと時々、ちょっと変だと思っても、「普通のお客さんは誰も気づかない」とか言って直さない人がいる。それはとっても間違っている。あなただけが気になること、それこそが、あなたのオリジナリティの源じゃないか。それを拾わないなんて、自分の才能を自分でつぶしている。自分だけが気になるからこそ、一般のお客さんにわからないからこそ、照明をやっている人にしか気づかれないからこそ、そこをちゃんとやるべきなんだ。その理由は、ここまで読んでくれたあなたには、わかってもらえると思う。

突飛な感覚なんて必要ない。普通のことを、丁寧に、大事にやろう。そうすればきっと、良いことが待っている。

少なくとも僕はそうだった。だから、これは信用してもらって良いと思う。


岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp

参考文献

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