舞台照明と原子力発電

東日本大震災によって、僕たちの住む関東は、今、電力不足に直面している。これは一時的なものでは済まないに違いない。それどころか、むしろ、原発に依存している現在の電力事情そのものが、これからはますます問題視され始めると思われる。

僕たちがなりわいとしている舞台照明は、電気をものすごく使う。僕たちが指一本でフェーダーを上げるだけで、数キロ~数十キロワットの電気が流れる。そして現状、その約三割は、原発で作られた電気だ。僕たちは、そして「脱原発」を望む僕自身は、その事実に、どう向き合えばよいのだろう。

僕は、舞台照明を始めた25年前から、「舞台照明は芸術と言えるのか」という問いを、ずっと考え続けて来た。この問題にずっと向かい続けて、そして最近、ついにやっと答えがつかめるかも、という感触を得かけたところが、今回の震災・原発危機で、すべて壊れてしまった。僕の考えは、明らかに甘かった。舞台照明は、僕の認識よりもはるかに深く、「原発」という巨大な怪物に依存しているのだ。

実際、今回の福島原発の危機的状況を受け、日本国内のすべての原発が早急に停止・廃止される方向に進むことは十分に考えられるし、僕もそれを望んでいる。それを前提とすると、全体の電力不足は避けられず、普段から電力を多く使っている我々舞台照明に対しても、今後、節電の要請・圧力が生じてくることは容易に想像される。

僕自身、すでに自分が携わる照明プランに影響が出始めている。図面に照明機材を書き落とそうとすると、爆発した福島第一原発の、あの無惨な映像が頭をよぎって、手が鈍ってしまうのである。頭の中で、一人の自分が言う「その機材はデザイン的に絶対に必要だ」。もう一人の自分が言う「そんな機材一台、あってもなくてもどうせ客にはわかんないよ。省いちゃえ。そのほうが節電になるし」。

自分のやりたいことが、自分の望んでいないことを前提にしている。僕はいったい、どうすれば良いのだろうか。舞台照明デザイナーは、節電要請を受けて、消費電力が少ない照明プランを考えるよう努力する義務があるのだろうか。もう少し直接的な言い方をすれば、「舞台照明において節電は芸術に優先するのか」。

いや、そんなわけはない。芸術は宗教と同じく、功利的な理由で犠牲にされることは、人間の行為としてはあってはならない。しかし、現に今「節電に配慮した照明」がいくつかの舞台で実施されているという事実がある。それはどういうことか。そういう現場では、節電が、舞台照明効果より優先されているということである。だとすれば、だからそれは、「照明効果は舞台芸術に絶対に必要なものではない」ということが、そこで実証されているということを意味する。少なくとも僕にはそう見える。我々照明家は「節電」の御旗のもと、「芸術」の世界から切り捨てられつつあるのかも知れない。

そうだとすれば、舞台照明は、「舞台芸術」から切り捨てられ、再び「電気工事」の領域に返されようとしている、ということかも知れない。それを、僕たちは受け入れるのか、それとも、それと戦うのか。

この問題を考える時、「事業仕分け」が比喩として浮かぶ。事業仕分けは、限られた予算を、無駄な事業に使わず、国民にとって有効なことに使おう、という主旨だ。同じように、「限られた電力」についても、国民にとって有効なことに電力を配分しよう、という議論が、これから始まるのかも知れない。

舞台照明は、はたして国民にとって必要なものだろうか。僕は、芸術、とりわけ演劇が、現代日本の社会により必要となっている、と主張して来た一人である。同様の理路で、舞台照明も、社会にとって必要なもの、長期的には国民のために大事なもの、という認識が、はたして共有されていくのだろうか。それとも、舞台照明は「芸術」の枠組みから蹴落とされてしまうのだろうか。

僕は、日本が脱原発を遂げることを心から望んでいる。しかし脱原発が本当に実現したら、その時、電気を大量に使う舞台照明は、いったい社会に認めてもらえるのだろうか。あるいは、LEDとか蛍光灯とか、ああいう、電力効率ばっかで表現力に乏しい器具が、舞台でも主流にならざるを得なくなるのだろうか。そういうことを真剣に考えなければならない「日本の舞台照明の危機」が、きっと訪れる。

僕たち舞台照明家は、この大きな変化に、どう立ち向かえば良いのだろう。闘うのか、それとも、それを受け入れるのか。いずれにしても、そういう変化に立ち向かう時が来るという、その「覚悟」だけは、持っていなければならないに違いない。


カテゴリー: 照明