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それが「かっこいい」と思うからです

舞台照明の話題
1999.9.2

私の照明について、一番多くいただく質問は「なぜ色を使わないのですか」というものである。同じ内容だが言葉を替えて、

と言われることもある。いつもお答えしている公式回答は「色を使う必要がないと思うからです」だが、これについて、もう少し詳しく考察してみようと思う。

私は、青年団の他にもう一つ、レギュラーに照明を担当している劇団があり、その名を「ノンゲートシアター」という。ノンゲートシアターの公演は、高山広という人が作・演出・出演を全て一人で行う、一人芝居である。一人でやるから、時には何役もこなしたりするのだが、これが落語の噺のように実に見事である。脚本の題材も多岐にわたり、高山氏が一人でサラリーマンや工場労働者や指輪やパチンコ玉など様々なものを演ずる。客層は老若男女問わずかなり広い。公演は主に東京で、年に5〜10回ほど行われている。芝居の状況設定も多様で、時間も場所も色々なのだが、そこでも私はほとんど色を使用しない。これら二劇団以外にも照明を依頼されることが時々あるが、演出家の直接指定などが無い限り、私は色を使用しない。使うとしても#B-3とか#B-4とか、色とも言えないような色(ものすごく薄い色)しか使わない。

なぜ色を使わないのか。「色を使う必要がない」という公式回答はなかなかわかりにくいという自覚はある。実はもう少しわかりやすい言い方がある。私が色を使わないのは、

色を使うのは「かっこわるい」と思うから

である。このほうが公式回答よりわかりやすいが、信じられにくいので普段はあまり言わないことにしている。

色を使うのはかっこわるいと言うが、世の中には、色をたくさん使った舞台照明が、たくさんある。いや、舞台照明といえばほとんど全部、色がたくさん使われている。それら全てを「かっこわるい」と言うのか!? 勇気を出して答えれば「その通り」である。ホリゾントがブルーやオレンジに染まったりとか、舞台全体がダークブルーに包まれたりすると、すごく「かっこわるい」、と私は思うのである。なぜ?という疑問が当然出ることはわかっている。観客の大部分が、色を多用した照明を「かっこいい」と思うことは、統計学的な事実として理解している。でも、なぜ皆がそれをかっこいいと思うのか、私にはわからない。このギャップは感覚(ないしは感性)の問題だから、仕方ないことである。仕方のない議論のことを「水掛け論」という。ネット社会では水掛け論のことを「宗教論争」と言うこともある。

っと脇道にそれそうになったが、要するに、直接的に言えば、私のセンスは「変わっている」のである。「変わっている」という言い方がお気に召さない方は、どうぞ、「岩城は照明のセンスが無い」と判断していただいてかまわない。むしろ、そう言った方が正しいのかも知れない。

だから、単に「照明さん」として紹介されて初めての劇団の照明をやったりする場合、非常に苦労することが多い。演出家が「かっこいい」と思うことを私が「かっこわるい」と思ってしまうからだ。自分が「かっこわるい」と思うデザインを採用するのは非常につらい。以前、あまりにつらくて(その時は理由は言えなかったが)私の名前をチラシやパンフレットから外してもらったこともある。ところが、世の中には色々な人がいるもので、私の感覚を理解してくれる演出家が何人かはいるのである。いつしか私はそういう数少ない演出家の作品の照明だけをやるようになってしまった。それが、ノンゲートシアターの高山広であり、青年団の平田オリザである、というわけだ。そんな状況に甘んじている内に私は、ほとんどの演出家と感覚の合わない、「照明の仕事を受けられない照明家」になってしまった。

しかしそれでも私は、馬鹿なことに、自分の感覚をまだ信じている。そのうち、時代が変われば「色を使うなんてかっこわるい」とみんなが思う時が来る、と本気で信じているのだ。こうなるともう「賭け」である。客観的には「一人よがりの阿呆」だが、主観的には「今に見ていろ」である。10年前に平田オリザが「現代口語演劇」を提唱した時、周囲の照明家たちは「照明で遊ぶところがない」とか「見せ場を作れない」と言って去っていった。しかし私は「現代口語演劇」に賭け、そのための照明を開発した。この賭けにはまだ負けていないと思っている。そして、最後には勝つと信じている。

私の結論:なぜ色を使わないのか。その理由は、「色」には賭ける価値が無い、と考えるからである。


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岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp