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ホームページや舞台照明や政治について


目次

各記事毎に表示(分割バージョン)


新シリーズを開始します

はじめに
1999.8.21

久しぶりに新しく連載ものを始めます。この「ホームページや舞台照明や政治について」という長いタイトルのエッセイシリーズの趣旨は、とにかく、私自身が興味を持っている話題について、思いついたら書いちゃおう、というものです。このような企画は、実はずいぶん以前から構想だけはあったのですが、独りよがりの文章を来訪者に押しつけるのはいかがなものか、という思いが邪魔をして、なかなか実現しませんでした。

私が今興味を持っているのは「舞台照明」「コンピュータ」「盗聴法」の話題です。これは一見バラバラだし、私の内面にあるその関連性を、まさか他人に説くのは到底不可能だと思っていました。ところが、「私だってこんなことは書きたくない」の掲載を境に、意外にも、このバラバラな興味を共有している人が私以外にも複数いることがわかり、こういうシリーズを始めてみても良いかもしれない、と思うようになったのです。

更新頻度などは全く未定です。また、話題は前述の三つには限りません。なにしろ「たれながし」ですから、どんな話題が出るかはその時になってみないとわかりません。しかし、ありがちな「日記」のようなものよりも、もう少しグレードの高い話題を常に心がけるつもりです。お越しいただいた方には、どうぞ興味のある話題だけ拾い読みしていただければ幸いです。


仮説:リンクの自由は憲法で保証されている

Webの話題
1999.8.22

WWWには「リンク」という優れた仕組みがあり、文中のアンカー部分をマウスクリックするだけで別のWebサイトにジャンプできるというのは子供でも知っていることである。新しくWebページを作成してリンクを張ろうとする際、リンク先に許可を求めるべきかどうかが問題になるときがある。個人のWebページなら開設者が自分で判断して自分の責任で行えばよいのだが、企業や団体のWebページをチームで作成したりするケースだと、チーム内でも意見が割れたりして、混乱の元である。

リンク許可については色々な意見があり、Webサイトにリンクの条件が書かれているのをよく見るが(このサイトもこのホームページについてにリンク条件を掲載している)、その内容はサイトによって様々である。色々と見てみると、完全なリンク禁止というのは珍しく、よく見かけるのは

  1. 完全にリンク自由、連絡も不要
  2. リンクは基本的に自由だが、事前または事後に連絡を希望
  3. リンクの際は事前に相談を希望、場合によっては許可しない

といったものである。私は上記の3は不当だと思う。私はリンク自由論者である。リンクについての私自身の意見は、下記の通りである。

あらゆるリンクは完全に自由であるべきで、事前も事後も連絡や許可の必要はない。ただし、先方が連絡を希望しているならば、マナーとして一報してあげるのが親切。リンクを禁止する、事前の許可を求めるなどは論外。
なお、リンク先の存在と同一性は、リンク元が責任を持つ。

そもそも、「リンクを張る」という、後から俗に生まれた表現をするからわかりにくいのであって、「リンクを張る」とは、要するに、<a href="..."> 〜 </a>という文字列を書く、ということに過ぎない。リンクを禁止するというのは、<a href="..."> 〜 </a>という文字列を書くことを禁止するということであり、これは憲法で保証された言論の自由の侵害である。

  1. http://www.letre.co.jp/~iwaki/essay/というひどいサイトがある
  2. こんなひどいサイトがある

これのどこが違うというのだ。1のような記述が言論の自由で保証されているなら、2だって保証されてしかるべきである。でも、名誉毀損になりそうな、あるいは著作権を侵害するような、目に余るリンクも実際にあるのだ、といった声が聞こえてきそうだが、名誉毀損だとか著作権侵害だとかは、個別の問題であって、リンクに許可が必要かどうかという議論とは関係ない。脅迫電話をかけたからと言って、電話の使用自体を禁止することはできないし、包丁で人を傷つけたからといって、台所での包丁の使用まで禁ずることはできない。宗教団体が犯罪を犯したからと言って、その宗教の信者であるという理由だけで罰することはできない。

同様に、名誉を毀損、あるいは著作権を侵害するようなリンクを張られたからと言って(ましてやその恐れがあるという理由だけで)リンクを禁止することはできない。

私の結論:リンクの自由は憲法で保証されている。


誤ったHTMLで迷惑するのは誰か

Webの話題
1999.8.23

WebページがHTMLという言語で書かれていることは大抵の方がご存じだと思う。HTMLがどんなものか見たことがない方は、一度見ておくことをおすすめしたい。今ちまたに普及している二大ブラウザなら、「表示」メニューから「ソース」ないし「ページのソース」を選択すれば、表示中のページがHTML言語でどう書かれているかを見ることができる。

HTMLも「言語」というだけあって(HTML= Hyper Text Markup Language)、文法というものが存在する。HTMLの文法は、World Wide Web Consortium(W3C)で定義されている。「文法」と言うからには、いかにも守らなきゃいけない感じがするのだが、じゃぁ文法が間違っているとWebページが表示されなかったりするのか、というと、そうでもない。というか、世界のWebページの中で完全にW3C推奨のHTML文法で書かれている(文法的に完全に正しい)ページは、間違いなく半分以下、控えめに見て1割以下、おそらく1%以下である。

HTMLの文法についても議論は多い。文法が守られていないページが多いことを非常に嘆いている人もいれば、「読めればいいじゃん」と言わんばかりに文法的に滅茶苦茶なWebページを公開している人まで、実に様々である。私自身はと言えば、文法ミスを犯さぬように勉強を重ね、だんだんと間違いが減ってきてはいる。このWebサイトの中でも、後から作成された部分(たとえばここ)などは、かなり厳格に文法が守られている。しかし、前回を注意深く読んだ方ならわかる通り、私の主張は(驚くなかれ)、

誤ったHTMLで書かれたWebページを作成・公開したって良い。そんなのは書く人の勝手。

である。言論の自由とはそういうことだと思う。

そもそもは、「文法」という言葉に罠がひそんでいるのだ。コンピュータを詳しく学んだ者、特に、プログラミング言語を学んだ者にとって、「文法」とは、絶対に守らねばならないもの、守らないとエラーが出るもの、という感覚がある。プログラミング言語の世界は、どんな些細な文法ミスも容赦しない。そして、コンピュータの世界で「言語」と言えば、それは「プログラミング言語」を指していた。HTMLもコンピュータで使う言語だから、コンピュータに詳しい者ほどHTMLをプログラミング言語のようにとらえ、いわば強迫的に文法を守ろうとする(私もその例外ではない)。しかし、HTMLはプログラミング言語ではない(ととらえる方が自然だと思わないか?)。HTMLを、「ブラウザにしかるべき表示をさせるためのプログラミング言語」だと考える人は少数派だと思う。

HTMLは、現状を見れば(もはや、あるいは最初から)プログラミング言語ではなく、記述言語である。だから、HTMLの文法について考える時は、C言語やPerlのようなプログラミング言語の文法と比較するのではなく、日本語や英語といった自然言語の文法と並べて考える方が現実的である。日本語の文法が多少間違っていようと、私たちは発言者の言いたいことを理解することができる。同様に、HTMLの文法が多少間違っていようと、受け取る者(ブラウザ)は、解釈してくれる。そう考えれば、「誤ったHTMLが氾濫している」という嘆きは、レベルとしては「最近の日本語は乱れている」というのと同じだということがわかる。

そう、それは「美しい言語とは」というような話題、つまりは感情論(「宗教論争」と言ったほうがわかりやすい方もいる?)なのである。どんな日本語を書いたって良い。世の中の、日本語で書かれた書物で、日本語の文法が最初から最後まで完全に守られているものはいったい何パーセントあるというのだ。だが一方で、日本語の乱れを憂う人がいても良い。HTMLもそれと同じだと思う。

誤ったHTMLを書いたからといって、誰かに被害が及ぶわけではない。ただ、それを読めない人がいるかもしれない。書いた人が「あぁ、この人はHTMLの文法を全然わかってない」とか「音声でHTMLを読む視覚障害者のことを考えてない」とか非難されるかもしれない。また一方、日本語の文法は滅茶苦茶でも、ものすごく面白い話をする人がいる。それを理解できない人もいる。それを馬鹿にする人もいる。HTMLの文法が滅茶苦茶なのに面白いWebページがある。それを賞賛する人もいる。それを非難する人もいる。

それでいいではないか。いずれにしても迷惑するのは発信者本人だけだと思わないか? ここは自由な世界なんだ。自由に行こう。

私の結論:誤ったHTMLで書かれたWebページを作成・公開しても、書いた本人以外は誰も迷惑しない。ただ、迷惑はしなくても、残念に思う人は多いかも知れない。

センスが良ければいいプランが書けるのか

舞台照明の話題
1999.8.26

照明デザイナーに必要な能力は何か。よく聞くのは「センスが良くっても技術がともなわないとだめだ」とか「技術はあってもセンスが良くないとだめだ」(同じことか)という意見である。「技術」という言葉はまぁわかりやすい。舞台照明というものは、いかにも専門的な知識や技術が必要そうな感じがするし、舞台照明家はそういう「技術」を身につけているっていう感じがする。問題はセンスのほうである。この「センス」という言葉は、相当くせ者だと私は思っている。

「センス」という言葉を他でどういう時に使うかを考えてみよう。「洋服のセンス」「髪型のセンス」「お部屋のインテリアのセンス」といったところだろうか。そのあたりの使用例を考えてみると、

センスが良いというのは
良悪の選択基準が的確(または面白い)

という感じの意味になろう。舞台照明の「センス」について言う場合も、ネクタイや壁紙の選び方と同じレベルで、いわば「コーディネート」のセンスで使われることが多いのではないか。しかしそれはちょっと違うと思うのである。

舞台照明は、舞台のスタッフワークの中で、最も「作り」の割合の高いセクションの一つである。舞台を創作するときは脚本、演出、演技(俳優)、舞台装置、照明、音響(音楽)、衣裳、小道具、メイクなどが集まって作られるのだが、その中には「作り」よりも「選び」の割合が多いものがある。例えば音楽は、既製の楽曲の中からシーンに適した音楽を選び(選曲)、それを舞台効果に使用してJASRACに使用権料を支払う、というケースが多い。衣裳も、例えば青年団の場合は布地から縫い上げることは希で、たいていは売っている衣服の中から選ぶ。では「選び」よりも「作り」に大きく依存しているセクションはどこかを考えてみると、現代演劇の場合、脚本・演出は言うまでもないが、それと、演技、舞台装置、および照明は、ほとんど例外なく圧倒的に「作り」の割合が高い(「選び」の割合が低い)。

先程提案した「センスが良い」の定義をもう一度見ていただきたい。そう、センスが良いとは「選ぶのが上手」という意味で使われるのが一般的なのである。ここに罠がある。照明は「作り」の比率が高いから、選ぶにしても、照明家が作った選択肢から選ぶしかないのである。まずい演出家はこの認識がない。演出家は照明について「提案」しているつもりでも、照明の経験のない演出家のそれは、照明家の作った選択肢の中で騒いでいるだけである。だから、いざ現場に入ったら、演出家が照明家に指示する際は、「こうして欲しい」ではなく「現状ではここがイヤだ」と言うのがコツである。

  1. 「彼女の顔をもっと明るくして欲しい」という指示
  2. 「彼女の顔が暗くて見えないのがイヤだ」という指示

どこが違うのだと思われるかも知れないが、照明家がとる行動は、場合によっては1と2で大きく異なることだろう。「こうして欲しい」という指示では、演出家の理解の範囲(照明家が作った選択肢の範囲)を出ることはできない。「現状ではここがイヤだ」と言えば、ひょっとしたら想像もつかないような新しい選択肢を照明家が作ってくれるかもしれない。1からは「じゃぁ顔にあてる照明を明るくしよう」という結論しか出てこないが、2の指示なら例えば「周囲を暗くすれば彼女の顔が見やすくなる」という選択肢も出てくるのだ。そして、有能な照明家は、1の指示から2の結論を出す。

そろそろ答えが見えてきた。照明家に必要なのは選択肢を作る能力である。だからまずは、可能性のある「あらゆる光の状態」をイメージできなければならない。光についての圧倒的な想像力が必要である。およそどんな照明も想像できなければならない。「明るい舞台」「単サスの状態の舞台」「逆光のバックの状態の舞台」、まだまだ。もっともっと細かく「#73の地明かりと#67のバックの中に#84と#59のポチがついている舞台に立った役者に#40のサスが落ちていて#Wのピンがあたっていたらどう見えるか」というように、とにかく考え得る全ての光を想像できなければならない。ちなみに私自身はそんなに多くのイメージは持てない。照明家の中でも光についての想像力は劣っている方だろう。ただし、「カラーフィルターを使わない範囲で」という条件付きなら、結構上位に入れる自信はある。

次に、イメージした光を実際に舞台で作る能力が必要である。これがいわゆる技術だ。イメージした光を仕込図に書くことができ、それを実際に舞台に設置すればイメージ通りの光ができる、ということができていないと話にならない。

そして最後に、イメージしたあらゆる光の中から、演出家の好みを選び出す、いわゆるセンスである。ただこれは、演出家のジャストピッタリの好みを選ぶ必要はなく、その周辺も含めた「選択肢」を作れればよい。選ぶのは結局は演出家の仕事だからだ。一番最後の選ぶ段階で演出家と意見を戦わせる照明家がいるが、それはとてもレベルの低いことだと思う。私も、現場で演出家に「あのライトをカットしてくれ」と言われたことがあるが、その時も予測の範囲内だったから即座にカットできた。別に惜しくも悔しくもない。こちらの用意した選択肢の中の、一つが採用されなかったに過ぎないからだ。もともと、演出家や観客に指摘されるようなレベルでは勝負していない。

私の結論:照明デザイナーに必要なのは光についての圧倒的な想像力、そのイメージを実現する技術、そこから演出家の好みを選び出す人並みのセンスである。

それが「かっこいい」と思うからです

舞台照明の話題
1999.9.2

私の照明について、一番多くいただく質問は「なぜ色を使わないのですか」というものである。同じ内容だが言葉を替えて、

と言われることもある。いつもお答えしている公式回答は「色を使う必要がないと思うからです」だが、これについて、もう少し詳しく考察してみようと思う。

私は、青年団の他にもう一つ、レギュラーに照明を担当している劇団があり、その名を「ノンゲートシアター」という。ノンゲートシアターの公演は、高山広という人が作・演出・出演を全て一人で行う、一人芝居である。一人でやるから、時には何役もこなしたりするのだが、これが落語の噺のように実に見事である。脚本の題材も多岐にわたり、高山氏が一人でサラリーマンや工場労働者や指輪やパチンコ玉など様々なものを演ずる。客層は老若男女問わずかなり広い。公演は主に東京で、年に5〜10回ほど行われている。芝居の状況設定も多様で、時間も場所も色々なのだが、そこでも私はほとんど色を使用しない。これら二劇団以外にも照明を依頼されることが時々あるが、演出家の直接指定などが無い限り、私は色を使用しない。使うとしても#B-3とか#B-4とか、色とも言えないような色(ものすごく薄い色)しか使わない。

なぜ色を使わないのか。「色を使う必要がない」という公式回答はなかなかわかりにくいという自覚はある。実はもう少しわかりやすい言い方がある。私が色を使わないのは、

色を使うのは「かっこわるい」と思うから

である。このほうが公式回答よりわかりやすいが、信じられにくいので普段はあまり言わないことにしている。

色を使うのはかっこわるいと言うが、世の中には、色をたくさん使った舞台照明が、たくさんある。いや、舞台照明といえばほとんど全部、色がたくさん使われている。それら全てを「かっこわるい」と言うのか!? 勇気を出して答えれば「その通り」である。ホリゾントがブルーやオレンジに染まったりとか、舞台全体がダークブルーに包まれたりすると、すごく「かっこわるい」、と私は思うのである。なぜ?という疑問が当然出ることはわかっている。観客の大部分が、色を多用した照明を「かっこいい」と思うことは、統計学的な事実として理解している。でも、なぜ皆がそれをかっこいいと思うのか、私にはわからない。このギャップは感覚(ないしは感性)の問題だから、仕方ないことである。仕方のない議論のことを「水掛け論」という。ネット社会では水掛け論のことを「宗教論争」と言うこともある。

っと脇道にそれそうになったが、要するに、直接的に言えば、私のセンスは「変わっている」のである。「変わっている」という言い方がお気に召さない方は、どうぞ、「岩城は照明のセンスが無い」と判断していただいてかまわない。むしろ、そう言った方が正しいのかも知れない。

だから、単に「照明さん」として紹介されて初めての劇団の照明をやったりする場合、非常に苦労することが多い。演出家が「かっこいい」と思うことを私が「かっこわるい」と思ってしまうからだ。自分が「かっこわるい」と思うデザインを採用するのは非常につらい。以前、あまりにつらくて(その時は理由は言えなかったが)私の名前をチラシやパンフレットから外してもらったこともある。ところが、世の中には色々な人がいるもので、私の感覚を理解してくれる演出家が何人かはいるのである。いつしか私はそういう数少ない演出家の作品の照明だけをやるようになってしまった。それが、ノンゲートシアターの高山広であり、青年団の平田オリザである、というわけだ。そんな状況に甘んじている内に私は、ほとんどの演出家と感覚の合わない、「照明の仕事を受けられない照明家」になってしまった。

しかしそれでも私は、馬鹿なことに、自分の感覚をまだ信じている。そのうち、時代が変われば「色を使うなんてかっこわるい」とみんなが思う時が来る、と本気で信じているのだ。こうなるともう「賭け」である。客観的には「一人よがりの阿呆」だが、主観的には「今に見ていろ」である。10年前に平田オリザが「現代口語演劇」を提唱した時、周囲の照明家たちは「照明で遊ぶところがない」とか「見せ場を作れない」と言って去っていった。しかし私は「現代口語演劇」に賭け、そのための照明を開発した。この賭けにはまだ負けていないと思っている。そして、最後には勝つと信じている。

私の結論:なぜ色を使わないのか。その理由は、「色」には賭ける価値が無い、と考えるからである。

CGIを使ったWebページ

Webの話題
1999.09.16

注:このトピックは、分割表示バージョンを開発する前(一括表示バージョンのみで公開されていた時)に書かれました。(1999.12.25)

Webページを、単に見るだけのものでなくインタラクティブなものにするための手法として、「SSI」「CGI」というテクニックが使われることをご存じの方も多いだろう。私の手元にある解説書にも、CGIによって、アンケート処理やアクセスカウンタやゲームなどが実現できる、と書かれている。これに限らず、ちまたの解説書で、まるで「SSIやCGIはインタラクティブのためにある」かのような物言いを目にすることがよくある。事実そのように誤解している人も多いかも知れない。しかし私はそれに異論を唱えたい。

CGIやSSIは、何もインタラクティブの専売特許ではない。それが証拠に、今ごらんになっているこのページ、実はこれはHTMLファイルではなく、CGIの出力である。
http://www.letre.co.jp/~iwaki/essay/index.html というファイルには、実は下記の1行しか書いていない。

<!--#exec cgi = "essay.cgi"-->

詳しい方にはピンと来ると思う。そう、これはSSIである。これを見て、SSIの知識のある方なら、このページは「essay.cgi」を直接呼び出すことによっても表示されるのでは、と思うことだろう。その通りである。納得したい方はどうぞ下記のURLを試してみてほしい。

http://www.letre.co.jp/~iwaki/essay/essay.cgi

では、このCGIで何をやっているかというと、「複数のファイルの連結とタグの付加」を行っているのである。このページは一つのHTMLファイルではない。このページでの連載は、冒頭の「はじめに」を入れると今回で6回目だが、原稿は各回ごとに別々のファイルになっている。つまり、今ごらんになっているこのページは、6つ(=今回執筆時点)のファイルがCGIによって整形&連結されたものなのである。しかも原稿となる各ファイルは完全なHTMLではなく、中途半端なタグ入りテキストで書かれている。例えば、これが今回の原稿である。このような原稿ファイルがCGIによって連結、整形されて、今ごらんになっているような体裁で表示されているわけである。具体的には、このCGIは以下のような処理を行っている。

上記の原稿のルール、一見えらく複雑に見えるかも知れないが、私には一番書きやすいルールである。つまり、原稿は自分の一番書きやすい形で書き、決まり切った整形はCGIにまかせる、という考え方なのである。この方法を採用したことで、連載の文章を書く労力が大幅に軽減された。このシリーズをこのペースで続けられているのも、そして、このページに文法ミスがほとんど無いのも、すべてCGIを導入したおかげである。
「労力を軽減できる」−−これこそ、コンピュータを使う最大の利点だと思うのだが、この点に着目してSSIやCGIの解説がされることが少ないのは、ちょっと残念なことだと思っている。

私の結論:SSIやCGIの使用をインタラクティブな部分に限定するのはもったいない。

集団で作品を作るには

舞台制作の話題
1999.9.22

青年団の舞台(装置や照明)は非常に計画的に作られる。前もって劇場の下見をし、舞台の大きさや高さを調べておくことはもちろん、資材の搬入経路の広さだとか、大道具のトラックはどれくらいの大きさのものまで横付けできるかとか、残響が多いからセリフが十分聞こえるように客席の形を変える必要があるとか、とにかく事前に徹底的に調査をし、計画を立てる。青年団では、劇場に行く前の計画、すなわち「プラン」を非常に大事にする。劇場に実際に行ってみて戸惑うことの無いよう、時間と労力をプランに注ぎ込む。
普通「プラン」というと、舞台の場合は美術や照明のデザインプランを指すことが多いが、青年団の計画性は何もデザインに限った話ではない。劇場での人員配置や仕込の手順、タイムスケジュール、といったことはもちろん、余った資材をどこに持っていくか、劇団員の昼食をどこで調達するか、打ち上げの宴席をどこにするかといったことまで、可能な限り前もって計画を立てる。とにかく、事前にできることは全部やっておこう、という考え方である。これを私は「プラン指向」と呼んでいる。

「プラン指向」の反対は「現場主義」である。

事前に計画を立てても、どうせ劇場に行ってしまえばその場の事情で状況は変わるんだから、行ってから色々考えればいい

という考え方である。もちろん、すべてのプロダクションを「プラン指向」「現場主義」というように明確に区分できるものではなく、あらゆるプロダクションは、どちらに寄っているという傾向はあるにしろ、両者の中間である。青年団というプロダクションは非常に「プラン指向」に寄っている、ということである。

普通に考えれば、もし仮に現場での時間が無制限にあるなら、すべての舞台は「現場主義」で制作可能であるように思える。時間の制限が仮にまったく無いとすれば、多くの舞台人は、あらかじめプランなどせず、全て現場で作ろうとするのではないだろうか。しかし私は(そしておそらく青年団の他のスタッフも)そうではない。たとえ完全に現場で作ることができるような環境と時間があたえられたとしても、私は現場に机を持ち込み、そこでまず「プラン」を作成するだろう。
以前ある演出家に、「もし劇場での時間が十分にあったら、現場で全てを作りたいとは思わないか」と問われたことがある。その時も今も、私の答えは「否」である。現場で全部できそうなもんなのに、私はわざわざ、計画を立てようとするのである。これは一見馬鹿らしく見えるかも知れない。この馬鹿らしさを言うために「プラン主義」ではなく「プラン指向」という言葉を使っている。

ではなぜ私がここまでプランを指向するのか。その理由は、集団の力は個人のプランが結集した時に最大限に発揮される、と考えているからである。

「現場主義」とは、結局、その場所で、その場にいる人で、一つの作品を作る、ということである。要するに、「みんなで作る」ということだ。だから、現場でモノを作るには、その場でのコミュニケーションが不可欠である。参加する者は、他者とのコミュニケーションを通じて自分自身を作品に反映させていく。しかし、人のコミュニケーション能力は様々であり、結局はコミュニケーションが良いほうが良い作品が出来ることになってしまう。優れたコミュニケーションによって優れた作品ができれば、それはそれで誇るべき事だと思うが、私自身は、それとは少し違う方向を目指したいと考えている。

先日、青年団の美術家が良いことを言っていた。彼に言わせると「図面は表現だ」という。私も同感である。「図面は表現だ」という言葉がわかりにくければ、「図面は作品だ」と言い替えても良い。そして、図面とはプランの表現である。そう、プランとは、一つの完成された作品なのだ。プランは常に、一人によって作られる。「プラン指向」とは、個人があらかじめ(作品としての)プランを完成させ、それを持ち寄ることで作っていく方法である。プランを持って集まった参加者は、直接のコミュニケーションで意志の疎通をする前に、まず互いの作品=プランを「鑑賞」する。だから、「プラン指向」のプロダクションにおいて参加者に必要となるのは、コミュニケーション能力ではなく、プランを作品として理解させる能力、つまり「表現力」である。

青年団のスタッフ間では、他のプロダクションに比べると作品内容についての議論は非常に少ない。これはコミュニケーションが少ないと言い換えても良い。それはそうだ。我々は常に、「口ではうまく言えない」ことをやろうとしているからである。対話やコミュニケーションに頼った創作手法からは、対話/コミュニケーションで伝わる範囲のものしか生まれてこない。私は、「対話」には限界があると思う。創造したものを全て対話の土俵に乗せるのは不可能だと思う。だから、対話やコミュニケーションに頼らずして「表現力」を最大限に発揮できる方法を模索している。「プラン指向」はその結果なのだと考えている。

事前にプランを立てても、劇場に行ってしまえばその場の事情で状況は変わる。そんなことはあたりまえである。だからといって、そんなことはプランを立てるのを放棄する理由にはならない。

人生には何があるかわからない、ということはわかりきっていることだが、だからといって「どういう生き方をしたいか」を考えることを放棄するつもりは、私はない。

私の結論:集団で作る、ということと、みんなで話し合って作る、ということは必ずしも一致しない。

仮説:ホームページは更新しなくても良い

Webの話題
1999.9.28

「ホームページを公開したら、更新を欠かさないようにしましょう。」という意見をよく聞く。(この場合の「ホームページ」は「Webサイト」の意味)。更新しないページには誰も来てくれない、などという意見も聞く。ちょっと待っていただきたい。私は、Webページは定期的に更新するべきだ、という短絡的な意見には反対である。もちろん、わざわざ憲法を持ち出すまでもなく、ページ作成者には「ページを更新しない自由」があるわけだが、これからするのは「自由」についての話ではない(Webにおける自由についての私の考えは、数回前に掲載した「仮説:リンクの自由は憲法で保証されている」や、「誤ったHTMLで迷惑するのは誰か」を参照されたい。)

そもそも、WWWという仕組みは、最新ニュースを配信するようにはできていない。Webページが更新したかどうかは、そのページを見に行かない限りわからない。あらかじめ登録されたWebページを自動的に巡回し、更新状況を知らせてくれるソフト、なんていうのがあるという話も聞くが、いずれにしろ、こちらから見に行かない限り、情報が更新されたかどうかはわからないわけである。どこかのページに最新ニュースが掲載されたとしても、こちらから見に行かなければ情報が掲載されたことすら知ることはできない。
ページを作成する側にしても、生のままの情報をそのままパッとページに載せるわけにはいかず、HTMLに直して、FTPとかでサーバーにアップロードしたり、などしなければならないわけだ。こんなまどろっこしい方法に速報性を期待するほうが間違っている。速報のためなら、個人レベルではE-mail、公共レベルではNetNewsという、より優れた仕組みが既にインターネットにあるではないか。それらを使って見もしないで「インターネットで最新情報をゲット」とか言っているのは、インターネットを娯楽の対象としか見ていない「視聴者」のセリフであって、ページ作成者はいちいち気にかけずとも良い。

それでも自分はWebページに最新ニュースを掲載するのだ、と言うならば、そういうページには道義的な意味で更新義務が生じる。「最新」と言っておきながら古い情報が載っていたらになってしまうからだ。
しかし、である。最初から「最新」情報を載せようとしない態度だってあるし、その方が本来的なWWWのあり方であるとさえ、私は思う。WWWは、時間が経過しても劣化しない(少なくとも、劣化しにくい)情報、そういう寿命の長い情報を載せるのに優れた仕組みだからである。

例えば、このサイト内の最も古いコンテンツは「青年団の照明の作り方」だが、これを掲載したのは1996年の秋だったと記憶している。現時点で、掲載から3年たっているわけだが、内容は3年間、まったく触っていない。もちろん、更新していないわけだから、一度読んだ人は二度は見ようとしないだろう。しかし、更新はしていないが、あの内容は初めて見る人にとっては「新しい情報」であるはずである。あれを今初めて見て、その人にとっての新しい情報として吸収していく人が、3年たった現在でもいる。「青年団の照明の作り方」は、時間が経過しても劣化しにくい情報だからである。

更新したほうがアクセス数が増える、というのは確かに正しい。しかし、アクセス数の多いページが、少ないページより優れているとは言えない。更新はされなくても、アクセス数が少なくても、内容が優れている、というWebページが世の中にはたくさんある。そういうページには、寿命の長い(劣化しにくい)情報が載っている。一度来た人が二度三度と続けてくるわけではないから、アクセスカウンターの数字は必ずしも大きくないかも知れないが、だからといって価値が低いわけではない。更新している=良いページ=アクセス数が多い、更新していない=怠慢なページ=アクセス数が少ない、という単純な図式的とらえかたをする人がいるが、それは誤っているし、残念なことだ、と私は思う。

もちろん、頻繁に更新して、最新の(寿命の短い)情報を常に載せているようなページにだって価値はあるし、そういうページで優れたものもたくさんある。しかし一方、全く更新はしなくても、ずっとそこにあって欲しいページ、というのもあるのだ。更新頻度ページの価値との間には、相関関係はあるかもしれないが、因果関係はない。

私の結論:更新するべきかどうかは、掲載されている情報の寿命で決まるのであって、Webの本質とは関係ない。

選挙は民意を反映しない

政治の話
1999.10.7

このシリーズで初めて政治の話を取り上げる。いきなり堅い話から始めたくないので、最初にクイズを考えていただきたい。

あるところに、鈴木さん、佐藤さん、岩城さんという三人の人がおりました。ある人が三人に尋ねました。
「来月一ヶ月間、パンかご飯かどちらか一方しか食べてはいけないことになりました。どちらを選びますか?」
それに対し、
鈴木さんは、「私はパン好きなのでパンが食べられないのは耐えられない。パンを選びます。」と答えました。
佐藤さんは「私は毎食ご飯で、パンはほとんど食べない。絶対にご飯を選ぶ。」と答えました。
岩城さんは「どっちか選ぶのはやだ。両方食べたい。どうしてもどちらか一方を選ばないといけないの?」と逆に突っかかりました。
さて問題です。上記の言葉だけで判断するとしたら、この中で一番賢いのは誰でしょう?

稚拙なたとえ話で恐縮だが、上記のクイズは、二大政党下の議会制民主主義を、私なりに風刺した比喩である。ご飯とパンは、二つの政党を表している。鈴木さんと佐藤さんは、それぞれの政党を支持する真面目な一般市民である。岩城さんは選挙を棄権する無党派層を表している。

さて、クイズの正解だが、一番賢いのは、最初に質問をした「ある人」である。発言は全部で四つである。この中で、最初の質問文を発するのが最も頭を使うことは明らかである。では、「ある人」とは誰のことを表しているか? その答えは後で述べる。

日本において国民はどのように政治に参加するか。言うまでもなく「選挙」によってである。投票所には投票用紙があり、記載台で記入する。記載台の前には大きく候補者(比例代表の場合は政党)の名前が「パン」とか「ご飯」とか「スパゲッティ」とか書かれていて、その中から自分が最も良いと思う名前を選んで、投票用紙に書く。投票者は与えられた選択肢から「選ぶ権利」しかなく、「ご飯2とパン1の比率」のように複数を選んだり割合を主張したりすることはできない。「クリームパン」とか「スパゲッティナポリタン」とか、選択肢に特別な注文を付けることもできない。また、選択肢に無い「うどん」とか「餅」なども書いてはいけない。それらは全て「無効票」として捨てられる。

ここまで見るだけでも「民意の反映」とはちゃんちゃらおかしい、と私は思うが、もう少し先まで見てみよう。日本の国政選挙で選出された者は、国会議員となり、国会にのぞむ。念のため解説すると、国会は「立法府」つまり、法律を作るところである ... と、小学校では習う。しかし実は違っていて、本当は国会は法律を作るところではなく、法律を「選ぶ」ところである。ほとんどの法律案は、行政府に所属するいわゆる「官僚」が作成する。法律案を行政府が作成することは日本では常識になっているので、ご存じなかった方はこの機会に是非覚えておいて欲しい。
たまに、国会議員が自分で法律案を作ることがあり、これを「議員立法」という特別な言葉で表現する。逆に言えば、「議員立法」でないものは全部官僚が作成した法案だということである。なぜ立法府の構成員である国会議員が法案を積極的に作成しないのかは、私は知らない。たぶん、その能力がないか、その必要がないと考えているか、そうしないほうが個人的に得だからか、あるいはその全部か、だと思う。ご存じの方は是非教えていただきたい。

国会は法律を「選ぶ」ことしかないから、「盗聴法」とか「国旗国歌法」とか、おかしな法律が出てきても、それを真剣に議論して「賛成」とか「反対」とか、せいぜい「修正」することが国会議員の役目だとされ、「もっと他に必要な法律があるんじゃないの?」という素朴な疑問巧妙に抹殺される。市民レベルで「○○援助法の早期制定を」とか「××救済法の早期制定を」とか訴えても、官僚が法律案を作成しない限り、議論される所までも行かない。

最初のクイズだが、「ある人」とは言うまでもなく「官僚」である。官僚は国会議員よりもはるかに頭を使う仕事である。官僚は法案という形の選択肢を作成する。国会はその選択肢の中から選ぶだけである。国民にいたっては、その選ぶだけの国会議員をさらに選挙で選ぶ。これでは宝くじの当たりくじはどれかを選ぶようなものであって、仮に国民全員一人一人が知恵と知識と情報を総動員してものすごく真剣に投票したとしても、確率的に言って、民意が政治に反映されるとは考えられない。

内閣総理大臣をはじめ、主に国会議員で構成される各大臣が行政府を統括することになっているはずだが、そんなのは形式的なことで実際には不可能であることは社会人の常識を持っていれば誰でもわかることだ。大臣はしょっちゅう交代する。企業にたとえれば、生え抜きの専務が率いる社員達で構成された会社で、社長だけが数年ごとにコロコロ変わるようなものだ。当然、会社の実権はナンバー2である専務が握ることになる。なお、行政府におけるナンバー2(事実上のトップ)は「事務次官」という役職である。

以上でわかるように、法律案は選挙から最も遠いところで作成される。法案に賛成とか反対とか、国会や国民は議論しているつもりでも、それは、頭脳明晰で優秀な「ある人」の手の中で騒いでいるに過ぎない。これが日本の民主主義と言われるものの実体である。

私の結論:日本国家が三権分立を実現していると考えるのは早計である。

私流パソコン上達法

パソコン初心者の話題
1999.10.31

私は立場上、パソコンについて周囲の人から質問を受ける機会が多い。これこれのアプリケーションで何々をする方法を教えてくれとか、何々をするのに適したソフトはどれかとか、あるいは、新しくパソコンを買ったので最初のセットアップをやってほしいなどと頼まれることもある。おかげで私はインストールの熟練者になってしまった。OSだけでも、Windows、MacOS、FreeBSDなどを合わせれば、私がOSをコンピュータにインストールした回数は少なくとも50回は越えているだろう。

最近、パソコン初心者向けの入門書を買うことがある。なぜ私がいまさら入門書を買うのかというと、初心者への上手な教え方を研究するためである。入門書には、コンピュータやインターネットの基礎知識をはじめ、パソコンを上手に使えるようになるための方法が、様々な考え方で書かれている。私はそれらの本を「この説明ではわかりにくいなぁ」とか、「この部分の解説に偏っているなぁ」という具合に批判的に読み、初心者に教える際の参考にしている。

入門書の書かれ方は、ジャンルの違いを別にすればどれもだいたい似たようなもので、大抵の本に書かれている初心者の取るべき基本姿勢は、「マニュアルを良く読む」「画面の説明を良く読む」「わからないときはサポートに電話する」といったところである。しかし、中に一冊だけ、読んで私が非常に不愉快になったものがあった。いわく、「マニュアルを読むより人に聞け」というのである。世の中には言って良いことと悪いことがある。この話題については「近くに詳しい人がいたら聞いてみるのも良いかも知れない」というような、ひかえめな語調で書くのが普通である。それを「マニュアルを読むより人に聞け」とは何事か。これだけで、筆者のレベルがわかるというものだ。パソコンに習熟している者は、必ず初心者から質問を受けた経験を持っている。そして、人に聞いてばかりではなかなか上達しない(理由は後述)ことを知っている。だから「マニュアルを読むより人に聞け」という言葉は、熟練者の口からは絶対に出てこない(と私は思う)。つまり、その筆者も初心者であるか、熟練者であるが人から質問されることのない嫌われ者か、いずれかであろう。

さてではパソコンに習熟するにはどうすればよいか。私は「知人には質問しない」という方法をすすめたい。じゃぁ知人でなければ質問して良いのか。その通り。見ず知らずの他人には質問をしてかまわない。じゃぁその「質問しても良い他人」とはどこにいるのか。

それはお教えできない。「情報のありかさえ教えてくれれば自分で調べる」という人は多いが、実はこれが、初心者の一番陥りやすい罠なのである。知識や情報を積み重ねていけばパソコンは上達し、最後には熟練者になれるのだと思われがちである。たしかに熟練者の知識は多いが、本当のポイントはそこではない。熟練者が熟練者たるゆえんは、「情報がどこにあるかという情報(情報へのポインタ)の量」によるのである。この「情報へのポインタ」というのが、パソコン上達の鍵である。知人に質問している限り、情報へのポインタはその知人だけである。知人に頼らず、見ず知らずの情報源を求めて探し回る習慣をつければ、情報へのポインタは飛躍的に増えていくはずである。

ある時こんなことがあった。私の友人の話である。彼はパソコンを購入する段階から、どのメーカーが良いかとか、購入時期は今で良いかとか、最初から私を頼り続けていたのだが、その彼がインターネットに接続できるようになり、ネットサーフィンがバリバリできるようになったころのことである。こんな質問をしてきた。

メールの送受信はできるようになったが、ある相手に送ると文字化けして読めないと言われてしまう。何がいけないのか。

詳しい方ならご推察できると思うが、彼の使っていたメールソフトは例の巨大ソフトウェア会社のものであった。私はインターネットでそのソフトに関する情報を検索し、同時に、文字コードに関する膨大な知識を得た。そしてその中から、文字化けを防ぐ対処法を引用し、彼に教えた。

ここで考えてみて欲しい。この過程で彼が得た知識は、メールソフトの文字化けを防ぐための設定法だけであり、その情報がどこで得られるかは知らないままである。きっと知りたいとも思わないだろう。しかし私はそうではない。今後も他の人から同種の質問を受ける可能性があるからである。私は今回の質問に答えるために、日本語の文字コードにはどんなものがあるか、そのメールソフトは文字コードの扱いにどのような問題があるか、など、実に多くのことを調べ、それらの情報源を全て私のブラウザにブックマークした。つまり、より多くの情報(および情報へのポインタ)を得たのは、質問をした彼ではなく、質問を受けた私だったのである。このように、初心者が熟練者に質問をすればするほど、知識や情報の差は広がるばかりで、決して縮まることはない。

「熟練者への質問」という行為は、目の前の問題を解決するには最も早い方法だが、パソコン上達のためには最も遅い方法であると、私は思う。

私の結論:パソコンに習熟するための良い方法は、他人に質問をすることではなく、他人から質問されることである。

仮説:政治家は悪くない

政治の話題
1999.12.14

みなさんは国政選挙で候補者を選ぶ際、どのような基準で選んでいるだろうか。選挙の場では「自分がもっとも良いと思う候補者または政党」に投票する、というのが教科書的答えである。こんなことを言っているから棄権者がどんどん増えるのである。そりゃぁあたりまえだ。「もっとも良いと思う」って言ったって、大抵の場合はそもそも「良い」と思う候補者が自分の選挙区にいないのだから。ここで、発想を転換してみてはいかがだろうか。もっとも良い候補を選ぶのではなく、まず、もっとも悪い候補は誰かを考えてみるのである。これなら少し考えやすいのではないだろうか。そして、2番目に悪い候補、3番目に悪い候補、と消去法で絞っていき、最後に残った候補者に投票するのである。これなら少しは投票する気がおきるのではないだろうか。

つまり、どうすれば政治が良くなるか、ではなく、どうすれば政治が悪くならないかという基準で考えるのである。選挙が近くなると、庶民にとっておいしいネタを公約として宣伝し、選挙が終わったら巧みに公約をホゴにする、というのは、政治家の常套手段である。だから、最初っから公約などは話半分で聞くべきだ。どうせ守れないのだから。なぜそう断言できるかというと、前々回の話題で取り上げたように、政治家は政策を作ったり執行したりするのではなく、ただ政策を選ぶだけの、とても弱い存在だからである。

そもそも政治家には公約を守る力などはない。以前も述べたが、法案というものはほとんどすべて、政治家が作ることはない。だから、どんなに立派な公約を言う政治家も、その公約のための良い法律案を作成するなどということはあり得ないということが、確率的に推論される。でも公約を言わないと落選して失職するから、しかたなくもっともらしい公約を言っているだけである。一般市民が、失業した際に就職の面接で「経理実務ならお任せ下さい」とか「コンピュータはバリバリ使えます」とか、多少ウソでも誇張して自己宣伝するのはよくある話である。政治家の公約もそれと同じで、話半分に聞かなければならないのはあたりまえの話なのである。本当の政策は、政治家とは別の、強い立場の頭脳明晰な人々が作っているのだから。

そう考えてみると、候補者の正しい選び方は、どういう政策を行うかではなく、他人の作った政策に、どれだけ迎合するのか、抵抗するのか、という基準を用いるのが良いということがわかる。つまり、候補者を選ぶコツは、良い政策に賛成するか、悪い政策に反対するか、で決めることである。それならば過去のデータが使える。過去に良い法案に反対した候補者、悪い法案に賛成した候補者はまず消去できる。そうやって消去法で絞っていけば、きっとあなたの投票する候補者を決めることができるだろう。

政治家に政策を期待してはかわいそうである。彼らにそんな力はないのだ。政治家は、我々一般国民よりは少しだけ強い立場にいるかもしれないが、基本的には我々の仲間(味方でなく同類という意味)である。権力者は他にいる。「政治家が悪い」というのは、たぶんその権力者によって非常にうまく仕組まれたプロパガンダである。政治家だって、我々同様、頭の良い権力者にだまされる弱い存在なのだ。そこを理解せず、政治家を攻撃してばかりいては、それこそ誰かさんの思うつぼである。

と、今回は根拠のないことをかなり断定的に言ってしまっているが、あくまで私個人の考えとしてご理解いただければと思う。実態はどうなのかという判断は読者にゆだねたい。

私の結論:政治家はもう、ずいぶん前から権力者ではなくなっている。

円周率は3.14ではない

算数の話
2000.1.15

昨日電車に乗ったら、日能研という小学生のための予備校の広告があった。東京在住ならご存じの方も多いかも知れない、シカクいアタマをマルくする」という、あれである。昨日見た広告には「円の面積=半径×半径×3?ウソォ」とかいうキャッチコピーで、2002年からの学習指導要領改訂に対する批判的考え方が述べられていた。新しい学習指導要領によると、円の面積を求めるなどの際、2002年以降の小学校では円周率の数字として、我々の親しんでいる「3.14」ではなく「およそ3」を使用することになるらしい。このように2002年以降は学習内容が大幅に単純化され、子供達の学力全体が低下することになり嘆かわしい、というのが日能研の基本的主張である。

この、新しい指導要領で円周率が「およそ3」になるという話は、実は一部マスコミによる誤った解釈が元になっていることがわかった。実際には円周率の取り扱いが特に大きく変わるわけではなく、指導要領の記載も
「円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。」
となっている。詳細は小学校学習指導要領の第3節、〔第5学年〕の項を参照 --- 2001.11.14 補足(学習指導要領のURLを2002.8.3に修正)

学習指導要領の改訂が良いか悪いかは、結論をすぐに出す自信がないのでここでは述べないが、「円周率を3.14じゃなくておよそ3にするなんて信じられない」という論調には少し疑問がある。それについて述べたい。

あらためて言うまでもなく、特殊な職業でない限り、円周率を日常生活で使用することはほとんどない。たまに使うとしても、「3.14」なんて厳密な数字は必要ないことがほとんどで、まぁ「3と少し」だということを知っておけば十分である。だからこそ新しい学習指導要領でも円周率は「およそ3」で十分だということになったのだろうが、「3.14」だって円周率の「近似値」であって、円周率そのものではない。「3」も「3.14」も円周率の「近似値」であるという点で、似たようなものである。ちなみに私は円周率を小数点以下30桁以上記憶している。一応書いておくと、円周率は約、3.1415926535897932384626433832795である。こんなことを記憶していても、少しも偉くない。同様に、円周率は「3」でなくて「3.14」だということを知っていても、少しも偉くないと思うのだ。ここにこの問題の本質がある。

そもそも、なぜ円周率が「3.14」だとわかるのか。
円周率を計算してみたことのある人はほとんどいないだろう。私は中学生ぐらいの頃に筆算で、高校生ぐらいの頃にパソコンで、計算してみたことがあるが、当時のパソコンで「3.1415」ぐらい、筆算では「3.1」ぐらいまで求めるのがやっとだったように記憶している。では、紐で円を作ってその長さを測る、という原始的な方法ではどうか。これも相当難しい。実はさっき実際にやってみた。直径20cmぐらいのボール(調理用)の口に、糸をぐるっと一周させ、その糸の長さとボールの直径を測り、比率を計算したのである。この方法で私が先ほど求めた円周率は「3.125」であった。つまりどういうことかと言うと、円周率が「3.14」であることを証明できる人は実際にはほとんどいないということだ。普通の人が、円周率は「3.14」だと思っているのは、単にそう記憶しているだけであって、自分で納得して得た数字ではない。円周率を30桁記憶していても偉くないと思うなら、円周率を2桁記憶していても同様に偉くないと思う。そんなことよりも、円周率は有限回の計算では求まらない半端な数である、という本質を理解することの方がはるかに重要である。

学習指導要領についてだが、円周率の話に限って言えば、私は日能研の意見には必ずしも賛成しない。「円周率は3.14だ」と鵜呑みにして覚えるより、「円周率はだいたい3ぐらいで、正確に求めるのは難しい」という認識を持っている方が、よほど健全だと思うからだ。

私の結論:「円周率が3.14である」と本当に自信を持って言える人はほとんどいないはずだ。

銀行に金を貸す

経済の話題
2000.2.11

日本政府や地方自治体の財政赤字(借金)が今、大変な金額になっている。その金額は600兆円を越えているらしい。600兆なんて言われても実感がわく人はいない。そこでマスコミなどは例えとして、一万円札にして積み重ねると富士山の何倍、だとか、横に並べると地球を何周とか、そういう説明をしているのを時々見る。でも、そう例えられてもやっぱりわからない。それにしても、なぜここまで巨額の借金をかかえることになってしまったのか。

余談だが、一万円札を600兆円分積み重ねるというのは不可能である。ここで「不可能」という意味は、論理的に絶対にできない、という意味である。「現実的に無理」という意味ではない。どういうことかというと、日本には、というか地球上には、そんなに大量の一万円札は存在しないのである。一万円札というのは、紙とインクからできている物理的実体であり、造幣局が作成した「物」である。私の調査が正しければ、地球上に出回っている日本円の現金は、100兆円分もない。つまり、日本の政府や自治体は「この世に存在し得ないぐらい多額の借金」を抱えている、ということが、文字通り言えるのである。

話は変わるが、皆さんの中には、銀行からお金を借りている方も多くいらっしゃることだろう。では、銀行にお金を貸している方はいますか? この質問には、多くの方が「はい、私は貸しています」と答えるべきである。多くの方は銀行の預金口座を持っているでしょう。普通、銀行にお金を預金する行為を「お金を預ける」というが、実はそれは銀行に「お金を貸す」と言ってもかまわない。「預ける」「預かる」「借りる」「貸す」という言い回しで誤魔化されそうになるが、預金だろうが借金だろうが、まとまった金銭をAからBに移動し、その後Bは定期的に利息(または利子)をAに支払う、という構造を持っていることに変わりはない。「お金の貸し借りはしないように」とか言う人が、何の疑問もなく銀行にお金を「預け」ていたりする。実際にはそれは銀行にお金を「貸して」いる行為なのだ。しかし、相手が銀行だとどうも「貸している」という気にならない。これが神話というものの効果である。

さて、最初に政府の借金の話をしたが、今の話を応用すれば、政府が借金しているというのは言い換えれば、政府がお金を預かっているとも言える。これはつまり、政府に預金している、という状態だ。実際、政府に預金するための金融商品があり、商品名を「国債」と言う。借金というといかにも返さなければならないもののような感じがするし、メディアによってそのように私たちは心理誘導されている。しかし、国家に預金していると考えると、それほど悪いことでもないような気もしてこないか。私たちの感覚とは、かくも実にいい加減なものである。だから、「借金」とか「預金」とかの言葉に誤魔化されないよう、本質に注意しなければならない。では財政赤字の問題の本質はどこにあるか。預金や借金のような「資金移動」があったとき、見逃してはならないのは「利息」の存在であり、これこそがこの問題の本質ではないか、と私は考えている。

たびたび話が飛んで恐縮だが、私たちはどういう時にお金をもらい、どういう時にお金を使うかを考えてみて欲しい。まず使う方から考えてみよう。簡単だ。それは品物を買うときである。といっても、洋服や石鹸やニンジンといった具体的な品物を買う以外に、床屋さんに代金を払うとか、宅配便の料金を払うとかなどのように、形を持たないものに払う場合もある。でもよく考えてみると、要するにどんな場合も、誰かが何かしてくれること(あるいはしてくれたこと)の対価としてお金を使うわけである。簡潔に言えば「仕事」の対価としてお金を払っているわけである。
もらう方は? これはもちろん、「自分の仕事」の対価として、給金をもらうわけである。

ということは、世の中の経済は「仕事」と「金銭」の交換が無数に連鎖して成り立っていると言うことなのか? 残念ながらそうではない。「仕事」の対価でなく金銭が動くケースがある。「利息」である。利息とは、まとまった金銭を移動するだけで発生する不思議なお金である。お金を一旦AからBに移動すると、それを元に戻さない限り、Bは永久にAに対して一定の金銭を支払い続けなければならない。利息は「仕事」とは全く関係なく発生する金銭である。現実の経済にはこの「利息」という魔物が巧みに織り込まれているのである。お金を預けた(=貸した)人は、それだけで、タダで利息が手に入る。ということは、どこかにタダでその分を払っている人がいるはずである。

もちろん、利息は直接的には借りた者が払う。しかしその負担は、個人の借金でない場合は大抵は転嫁される。簡単な例で言えば、全ての企業は出資という名の借金により成り立っているから、利息を払っているはずである。なのに、ほとんどの企業は黒字である。つまり利息負担は誰かに転嫁されている。どこかにしわ寄せが行っているわけだ。しわ寄せを喰った者もまた他の者に負担を転嫁したりして、実体はグチャグチャである。じゃぁ最終的に、誰がその負担をしているのか、を、考えてみるのも面白いかもしれない。

最初の話に戻ろう。政府には多額の借金がある。ということは一方で、政府にお金を貸している人がいるということだ。政府にお金を貸している人は、タダでその利息を手にできる。ひょっとしたら、その利息で生活している人だっているかも知れない。政府がもし、現在の借金を返済してしまったら、その利息収入を得ている人達には大打撃になる可能性もある。

さて、もう一度考えてみよう。日本の財政赤字は、なぜここまで巨額なのか。

私の結論:お金持ちになりたい。


電球が切れたら誰のせい?

舞台照明の話題
2000.5.13

舞台照明で使われる光源は原則として電球である。普通、一般家屋やオフィスでは照明の光源として蛍光灯が多く使われているが、舞台の場合、電気のコントロールによりつけたり消したり、あるいはフェードインしたりフェードアウトしたりということが必要なので、技術的な理由により電球が使われる。皆さんもご存じの通り、電球の寿命は蛍光灯に比べると非常に短い。カタログによると、製品によって違いはあるものの、電球の寿命はおよそ500〜1000時間である。どんな電球でも500〜1000時間点灯すれば必ず「切れる」。電球がいつかは切れるというのは、人間がいつか死ぬというのと同じぐらい確実なことである。その上、電球が切れる時は大抵の場合、予兆なく突然切れる。こんなものを光源として使っているのだから、考えようによってはずいぶんと危なっかしい話である。この不可避の危険に対し、照明家はどのように立ち向かうべきだろうか。青年団の場合について考えてみよう。

ご存じない方のために最初に補足しておくが、青年団の照明は変化が無く、全ライトが開演から終演までつきっぱなしである。青年団の公演はどの演目でも上演時間が約90分、前後の観客入退場時間が30分ぐらいだから、一回の本番につき、約2時間照明がついているということになる。さて、では一回の本番の上演中に電球が切れる確率はどれくらいなのだろうか。まず電球一個の場合について考えてみよう。非常におおざっぱな計算だが、

寿命500時間の電球だとすると、それを2時間点灯するわけだから、切れる確率は2/500

である。実際の公演時はライトは低めの電圧(50〜70ボルト)で点灯するので、切れる確率を低めに見て、1/500ということにしよう。ライト1台だけの舞台照明で青年団の公演を行う場合、一回の本番中にそれが切れてしまう確率は、1/500である。この場合、ライトが1台しかないから、もしもそれが切れてしまったら舞台照明はゼロになってしまい、公演が成立しない。つまり、1/500の確率で上演中止、ということになる。

ライト1台ではあまりに現実味がないので、20台の場合を考えてみよう。

1台の切れる確率が1/500とすると、 20台の内の少なくとも一台が切れる確率は、 近似的に20×1/500(一次の近似式)、すなわち1/25

である。1台の場合にくらべ、ずいぶんと危険になってしまった。しかし、ライトが20台あれば、その内の1台が切れたぐらいでは公演中止にはならない。では、電球切れは何台まで許容できるか。青年団の場合、おおむね全ライトの10%ぐらいが限界ラインだと思う。つまり、20台の照明なら2台ぐらいは切れてもまぁ良しとしてもいいと思う。それ以上切れてしまうと、上演中止にはならなくても、照明のデザイン的にかなりガタが来る。

20台の内の2台が切れる確率は、近似的に1/25の二乗、つまり1/625

である。

全ライトの10%ぐらいが限界ラインと述べたが、ライトの中には重要なものとそれほど重要でないものがあるので、上記のような平坦な計算はできないのではないか? 普通なら確かにその通りだが、青年団の場合はライトによる優劣の差が少なくなるように作ってある。青年団の照明では通常40〜80台ぐらいのライトを使用するが、その中のどの1台が切れても本番には全く支障がない。だからといって、そのライトを省略できるわけではない。青年団の場合、舞台照明全体の役割を、各ライトが何十分の一かずつ分担することで構成されているのである。無意味なライトは1台もないが、逆に必要不可欠な(その1台が切れると全体がだめになってしまうような)ライトも1台もない、というわけである。

先ほど、20台の内2台が切れる確率は1/625という計算をした。つまり、20台で照明を作った場合、それが電球切れで「だめ」になる確率は1/625、ということである。ある公演が10ステージ(本番10回)だったとすると、その公演期間中に「だめになる確率」は1/62.5 である。こうして見てくると、ある公演の照明が電球切れによってだめになる確率、を計算する式が作成できる。

だめ率=ステージ数×(使用台数×1/500)^(使用台数/10)

では、この「だめになる確率」をいくつ以下に押さえれば良いだろうか。この算出は難しい。発想を変えて、「10年に一回ぐらいはそういうことがあってもやむを得ない」という考え方はどうだろう。青年団の年間ステージ数が50とすると、10年で500ステージ、だから「だめ率」が1/500以下なら合格、ということにしよう。分数を使っているとうっとうしいので、「だめ率」に5000を乗じた数を危険度と名付け、危険度が10以下なら合格、ということにする。

危険度=5000×ステージ数×(使用台数×1/500)^(使用台数/10)
これが10以下なら合格

上述の、20台で10ステージという例の場合、危険度を計算すると80となり、不合格である。

過去の公演のいくつかについて「危険度」を計算してみた。数字を羅列しても面白くないだろうから省略するが、最近の公演ではその値はどれも、0.5とか1.7とか、かなり低い値になった。ただ、毎年春に行っている(本稿執筆時点)富山県利賀村の公演の場合、機材数や電源容量に制限があるため相対的に危険度が高くなる傾向がある。例えば今年(2000年)で言うと、その値は4.3だった。この時の公演は4ステージだった。仮にだが、この公演がもし10ステージあったとしたら、危険度は10.8となり、不合格となるプランであった。

不測の事態が起きても舞台に影響しない照明プランを、私は「強いプラン」と呼んでいる。この場合の「強い」とは、強力だとか怪力とかいう意味合いではなく、耐久性がある、というニュアンスである。私は、会場条件が許す限り、できるだけ強いプランを書くように努めている。

こんなことを考えながら照明を作る私は、神経質に過ぎるだろうか。自分ではそうは思っていないのだが。

私の結論:電球が切れること自体については照明家に責任はない。しかし電球が切れたことで舞台がダメージを受けた場合、その責任は照明家にある。

仮説:国際化については考えなくて良い

政治家の発言の話題
2000.5.16

今回のトピックは、申し訳ないが低レベルの話題である。非常に腹が立ったので思わず書いてしまったが、本当は「私だってこんなことは書きたくない」。

現在(本稿執筆時点)、日本の総理大臣は森喜朗という人である。この人が先日、下記のような発言をし(2000年5月16日朝日新聞夕刊より)、政治問題化している。今の所、発言の撤回や訂正の意志はないらしい。

(前略)
 最近、村上(正邦参院議員)会長はじめとする努力で、「昭和の日」を制定した。今の天皇ご在位十年のお祝いをしたり、先帝陛下(在位)60年だとか、政府側が及び腰になるようなことをしっかり前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心とする神の国であるぞということを、国民の皆さんにしっかりと承知していただくというその思いで我々が活動をして30年になる。
(中略)
 神様であれ仏様であれ、それこそ天照大神であれ、神武天皇であれ、親鸞聖人さんであれ、日蓮さんであれ、宗教というのは自分の心に宿る文化なんだから。そのことをみんな大事にしようよということを、もっと教育の現場でなぜ言えないのか。信教の自由だから触れてはならんのか、そうじゃない。信教の自由だからどの信ずる神も仏も大事にしようということを、学校でも社会でも家庭でも言うことが、日本の国の精神論から言えば一番大事なことなのではないか。

じゃぁ言わせていただくが、神も仏も信じない自由はどうなるのだ。私は唯物論者である。上記の内閣総理大臣の発言は、私のような者から見れば信教の自由の完全なる侵害である。そんなこともわからない人がこの国では総理に選ばれるのだ。

先日、東京都の石原都知事(当時)も「三国人」という単語を使って問題発言をした。まったくどういう神経をしているのか。

私が韓国人や在日韓国人やアメリカ人やフランス人の友人とつきあう上で、公的立場の人にこういった発言をされると、はっきり言って迷惑なのである。未来の日本のためとか国際問題とかそういう話ではない。私が、個人的に迷惑するのである。だから軽率な発言はやめていただきたい。付け加えるなら、こういう発言をする政治家には私は絶対に投票しない。

政治家の方々に質問したい。国際化だとかグローバルスタンダードだとか、偉そうなことを言ってるけど、あんたら、一人でも外国人の友人を持っているのか?

私の結論:自分に関係ないくせに国際問題を語るべからず。

HTMLメールとは何か?

電子メールの悲しい話題
2000.5.20

HTMLメールがかなり流通している。当然である。MicrosoftOutlook Expressという、巨大シェアを持つメールソフトが、デフォルトでHTMLメールを送るようにできているからである(巨大シェアを持つもう一つのメールソフト、Netscape Messengerも同様のデフォルト設定だと聞く)。

ところであなたは、HTMLメールとは何かご存じだろうか。

この問題を考えるとき、私はとても悲しい気持ちになってしまう。なぜなら、以下の命題がかなり正しいと思えるからである。

知っている人は使わず、知らない人は無自覚に使う。そしてメーリングリストなどで叱られる。こんな悲劇的なことがあっていいのだろうか。Outlook ExpressがデフォルトでHTMLメールを送る設定なっていることについては、実に色々な所で批判されている。にもかかわらずMicrosoftは、デフォルト設定を変えようとしないばかりか、批判に対する回答や見解も何ら示さない。まるで無視である。

「あなたのメールはHTMLメールになっています。設定を変えた方がいいと思います。」というメールを、あなたは受け取ったり書いたりしたことがあるだろうか。少なく見積もっても半数位の方はあると答えるに違いない。だとすると、そういう「あなたのメールはHTMLメールになっています」という主旨のメールは、いったいぜんたい、一年で何通ぐらいやりとりされているのか。考えただけでも気が遠くなる。

この自由で素晴らしいインターネットという世界で、どうしてこんな馬鹿げたことが起きてしまっているのか。この問題を考えるたびに、自由なはずのこの世界で言い様のない無力感を感じ、とても悲しくなる。

私の結論:仮想世界ですら、かように我々は無力である。いわんや現実世界においてをや。


ITって何ですか?

流行語の話題
2000.8.2

コンピュータ関係では、カタカナやアルファベットを使った横文字言葉がたくさん使われる。というか、コンピュータ関係の用語は、全部、英語ないしはその略語またはそれらのカタカナ表記である、といっても過言ではあるまい。

例えば、ホームページを作成して公開する際の作業を書いてみよう。

テキストエディタでHTMLファイルを作成して保存したら、PPPでインターネットに接続し、FTPでWWWサーバーにアップロードする。

と、ちょっと書いただけでこれだけ横文字が出てきてしまう。このようにコンピュータの世界で使われる用語は、基本的に横文字(カタカナを含む)である。

私は、(自分で言うのも気恥ずかしいが)コンピュータにはかなり詳しいので、それはすなわち、こういった横文字言葉もたくさん知っている、と言うことができる。その私が聞いたことのないある略語が、知らない間に巷でたくさん言われるようになっていることに先日気がついて、大変驚いた。その略語とは「IT」である。ITというのは Information Technology の略で、「情報技術」の意味です、と言われても、何のことだかわからない。

ところで、こういう説明はやめて欲しいものである。

こんなのは「説明」でなくて単なる「言い替え」である。実は全然説明になってない。で、本当はどういう意味なのか色々と調べてみた。その結果得た、私なりの「IT」の説明は下記の通り。

最近若い人達がやってる「いんたあねっと」だとか「あいもおど」だとか「いいめえる」だとか「ほおむぺえじ」だとか、そういう「オジサンやオバサンにはよくわからない未来風のもの」の総称。

つまり、「IT」というのは実はIT用語ではなく(笑)、ニュース用語、ないし経済用語である、というのが私の結論である(おっとっと、いつもは最後に書いているのだがここで出てしまった)。ちなみに、「IT」という単語が一番数多く登場する媒体は、おそらく日本経済新聞である。この種の言葉は、実は非常に意味の薄い言葉で、なかば「流行語」と言っても良いくらいである。専門外の人達が専門家に羨望を込めて使う言葉、と言えるかも知れない。同種の言葉の例として「マルチメディア」がある。

日本語で物事を理解しようとする際、定義にピッタリした言葉があると、いかにもわかったような気になるものである。ところがそれは、単に「言い替え」を見つけただけであって本質は全然わかってはいないのである。そういうところをうまく隠して、「言い替え」を連続的に繰り出して、うまく相手をわかったような気にさせるのがプレゼンテーションの基本であり...と、この話題も結構面白いのだが、これ以上は「企業秘密」ということでご勘弁いただこう。

私の結論:「IT」は、IT用語ではない。

貝殻は燃える

「常識」の話題
2001.3.9

私が所属する劇団青年団は東京の劇団だが、東京以外でもよく公演を行う。これまでも東北、近畿、九州をはじめ、数多くの場所で公演を行った。旅公演も地元東京での公演も基本的にはやることは同じで、事前の計画・打ち合わせさえしっかりしておけば公演を行うこと自体に問題が起きることはほとんどない。しかし旅公演の場合、宿泊や食事といった生活面で色々とやらなければならないことがあり、これが時々問題の原因となることがある。

「舞台は非日常である」というのは言い古されていることであり、青年団においても例外ではない。青年団の演劇が日常を描いているかどうかという議論はここでは置いておいて、演劇という行為を冷静に見てみれば、大道具や照明が設置された舞台の上で、俳優が決められた動きをしながら決められた言葉を話し、大勢の観客がそれを黙って見る、ということであって、これはどう考えても相当特別なことであり、日常とは言えない。しかし、宿泊や食事といった生活面のことは、人間ならだれでもやっていることであり、こちらはまったく日常のことである。日常のことは「常識」が幅を利かせるため、なかなか細かいことまで打ち合わせが及ばない。一般常識となっていることはわざわざ確認する必要がない、と、普通は考えるからである。

世の中、「常識」とされていることは多くある。私たちが無意識に使っている常識は、日本中どこへ行っても通用するものがほとんどである。この情報化時代、まさか地方によって「常識」がそんなに違うわけはない、と普通は考える。しかし旅公演に行くと、その考えが誤りであることを痛感する。常識同士がぶつかり合う好例が「ゴミの分別」である。

全国には様々なゴミの分別方法があるが、最も多いのは「燃えるゴミ」「燃えないゴミ」の二分別方式である。ところがどっこい、何が燃えるもので何が燃えないものかが、土地によってかなり異なるので驚かされる。みなさんの土地の分別で、以下のものの内、いくつが「燃える」だろうか。

これらはいずれも、土地によって「燃えるゴミ」だったり「燃えないゴミ」だったりするものである。ちなみに東京では上記は全て「燃えない」。私の経験則で言うと、東京は日本で最も「燃える」ものの少ない土地である。より正確に言うと、東京の「不燃ゴミ」とは「燃えないゴミ」ではなく、「燃やしてはいけないゴミ」である。上記の中には、物理的には容易に燃えるものもいくつかあるが、それらを燃やすと焼却炉内で有害物質が発生したり、焼却炉自体が傷んだりするので燃やしてはいけないのである。東京在住で、上記の内のいずれかを「燃えるゴミ」に出していた方、この機会に是非覚えておいていただきたい。

全国どこでも「燃える」のは、紙・木・生ゴミである。逆に全国どこに行っても「燃えない」のは、ガラスと金属だけである。魚や家畜の骨、カニやエビの殻などは生ゴミなので「燃える」。貝殻も、物理的には燃やすのは相当難しいが、日本中どこでも「燃えるゴミ」である。これら以外、つまり紙・木・生ゴミ・ガラス・金属以外のものについては、行く土地ごとに「燃えるゴミですか?燃えないゴミですか?」と尋ねなければならない。劇団にはそういうことを尋ねる係もちゃんといるのだが、土地の人にそんな質問をすると、「そんな常識も知らないの?」という顔をされることも多いようだ。しかしこちらは真剣である。ここで「あんたの土地に合わせてやろうって思って尋ねてるのに!」などと逆ギレしていては芝居はできない。

2002年に公演で行って知ったのだが、2001年10月より北海道富良野市でスタートした新しい分別方式では、「燃えるゴミ」という分類が無く、また「生ゴミ」が独立の分別になっている。つまり、富良野市では、貝殻は燃えない。富良野市のごみ処理は非常に徹底していて、かつ強いスタンスでのぞんでいるところがとても興味深い。様々な示唆に富んでいるので、ぜひ一度ご覧いただきたい。−−2002.8.3 補足

ゴミ処理はたいてい行政の仕事なのだから、行政の側でもっときちんと、「これは燃える」「これは燃えない」とアナウンスしてほしいものである。例えば以前公演で行った山形県遊佐町の収集用ゴミ袋には、何が燃えて何が燃えないかが絵入りで詳しく書かれていた。全国の行政もぜひ遊佐町を見習って、収集用ゴミ袋に燃えるものと燃えないものの区分を記載してほしい。東京都指定の半透明可燃物用ゴミ袋には「この袋は炭酸カルシウム混合なので焼却しても有害物を発生しない」と書かれている。だからどうしたというのだ。それで「都は環境問題を真剣に考えている」と言いたいのか。袋を燃やせる材料で作っても、その中に入れる物を市民が間違えたら意味がないではないか。行政のみなさんにお願いする。収集用ゴミ袋にぜひとも分別の詳細を記載してほしい。政治家のみなさんにお約束する。「収集用ゴミ袋に分別の詳細を記載します」という公約を掲げたら、私は必ずあなたに投票する。

私たちは普段、あまり頭を使わずに「常識」でものごとを判断する。狭いコミュニティの中でならそれも有効である。しかし、世界に目を向けるなら、自分の「常識」を今一度見直すべきである。いやむしろ、普段の常識を批判的に検証することで、逆に世界が見えてくる。

といっても、我々のように全国を旅することでもない限り、常識(無意識に前提にしていること)を意識化するのは難しいだろう。私は、常識を見直すため方法として、「この常識は他の国でも通用するか」と考えてみることにしている。そのように冷静に考えてみると、普段使っている常識が、いかにローカルなものに過ぎないかが見えてくる。常識同士がぶつかりあうのを怖がっていては、時代は前に進まないし、ましてや国際化などあり得ないと思う。

さあ考えてみよう。あなたが海外に行った時、その土地で「貝殻は燃えます」と、はたして自信を持って言えるだろうか?

私の結論:私たちは「常識」の力によって、何が燃えるか燃えないかという簡単な判断さえ停止してしまう。かほど「常識」とは危険なものである。

舞台スタッフのダブルクリック

舞台裏の話題
2001.4.1

中高年のパソコン初心者にとって、最初の難関は「ダブルクリック」であるらしい。握ったマウスを動かさずにボタンだけ素早く二回押す、という動作は、慣れないとなかなか難しいと聞く。私自身は、「マウス」などというものがまだ珍しかった頃からパソコンとつきあっているし、マウスが普及した時はまだ20代だったので、ダブルクリックに苦労した記憶はあまりない。だが、私とダブルクリックとのつきあいは、実はもっとずっと古いのである。

私が最初に「ダブルクリック」に出会ったのは、1988年頃である。私とダブルクリックとの出会いの場は、驚くなかれ、照明の現場であった。照明(というか舞台)の現場では多くの場合、「インカム」という機器が使用されるのをご存じだろうか。インカムとは簡単にいえば、裏方スタッフ同士をつなぐ、常時会話可能な有線電話である。劇場で、スタッフがヘッドセットをかぶって会話しているのをご覧になったことのある方もいることだろう。あれである。

舞台やイベントで、効果音と共に照明が明滅し、同時に火花が飛んだりするような場面があったとする。ピタリとタイミングが合えば実に見事に観客を魅了する。そういう時、観客は「スタッフの息が何とぴったりとあって」などと思うのかも知れないが、あれは別に、スタッフ同士の呼吸とかはあまり関係なくて、インカムでお互いに会話しながら誰か一人のかけ声でやっている場合がほとんどである。

かけ声と言っても「せーの」といった言葉は使わず、横文字で「スタンバイ、ゴー」と言う。実際のインカムの会話では、舞台監督かそれに類する人が「まもなく何々のキューです...スタンバイ...ゴー!」などと発語してタイミングを合わせる。小劇場の場合はインカムで「スタンバイ・ゴー」とか言ってたら観客に聞こえてしまうから、インカムを使わないケースも多いが、大劇場や「幕張メッセ」のような展示会場、あるいは野外などの場合、本番中のスタッフ同士は実はインカムで結構しゃべっている。特にロックコンサートのような、舞台で激しい効果が連続しているようなものになると、キューを指示する人は本番中を通してほとんどしゃべりっぱなしである。

しゃべりっぱなしの人がいるかと思えば、まったく話す必要のない人もいる。例えば、ピンスポットのオペレーターなどは、キューをもらってそれに従って操作するのが主な仕事で、自分からしゃべる必要はほとんどない。そういう人は、自分のマイクのスイッチをOFFにしておくのが礼儀である。さもないと、周囲の雑音が会話に混入し、キューの伝達の障害になるからである。

マイクのON/OFFのスイッチは、手のひらほどの大きさの子機と呼ばれるものについている。ヘッドセットはこの子機につながっていて、子機からさらに回線のケーブルがのびているのだが、この子機に、マイクのON/OFFの押しボタンスイッチがついている。短い発言をしたい場合は、押しボタンを押しながら話す。ボタンを離せばマイクはOFFになる。しかし、長時間しゃべる必要がある人は、ボタンをずっと押し続けるのは大変なので、マイクを常時ONの状態にしなければならない。そのためには、ボタンをダブルクリックする

やっとこれで話がつながった。そういうわけで、舞台の世界では、ずいぶん昔からダブルクリックという操作は存在していた。ただし、「ダブルクリック」という言葉が普及するのはその十数年後である。制作の人にインカムを貸す際など、昔は子機の使用法の説明をするときに、「ボタンを押せば話せます。ずっと話したいときは、こう、2回押すと、ONの状態になります。」というように説明し、それでもなかなかわかってもらえないこともあるくらいだったのだが、マウスが普及した今は、「押せばON、離してOFF、ダブルクリックでずっとONになります」といえば一発で通じる。ちなみに、中高年の舞台人にマウスのダブルクリックを教える際は逆に、「インカムのスイッチみたいに続けて2回ボタンを押します。」と言えば良い。

パソコンのダブルクリックの話をしようとしたら、すっかりインカムの話になってしまった。が、これはこれでなかなか面白い話になったので、今回はこれで終わりにして、本当にしたかったダブルクリックの話はまた別の機会にゆずることにする。

私の結論:(今回は話が脱線したため、結論はありません。)

日本国首相が靖国神社を参拝する権利

政治と宗教の話題
2001.8.15

※このトピックは受け取る人によってはかなり過激だととらえられる可能性があり、発表するかどうか迷ったのだが、やはり勇気を持って公開することにする。

今年(2001年)の8月13日、小泉純一郎首相(当時)が、靖国神社を参拝した。日本国の首相が靖国神社を参拝するのは5年ぶりのことであった。当然ながら、例によって、首相の参拝が良いか悪いかという議論が盛んに起こった。

議論は盛んではあるが(むしろ盛んであるので)、ここではその話はあまりしない。日本の首相が靖国神社を参拝することが良いか悪いかという議論を、ここで繰り返すことはしない。その代わりに、参拝が「良いか悪いか」ということ以外に、私には言いたいことがある、という点を強調してみたい。

小泉首相はどういう経緯で参拝に至ったのか。今回参拝したことについて、首相の談話が新聞に載った。談話には、「公式かどうか。私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した。」という言葉が含まれている。談話全体を読むと、小泉首相は「自分が参拝したいと思ったから参拝した」と、要約すれば単純にそういうことのようである。さすが、話がわかりやすいと評判の首相だけあって、談話も実に簡潔でわかりやすい。

では私の意見を言わせていただくことにしよう。小泉首相は、首相であるとはいえ日本国民の一人である以上、自分の意志で自分が望む神社に自由に参拝する権利は、当然ある。だから、首相の靖国参拝を禁ずべきだ、というような極端な議論は、ちょっと無理があると私は思う。逆にじゃぁ参拝に賛成なのか、と問われれば、とんでもない、大反対である。理由は、「イヤだから」。

首相が靖国神社に参拝するのは、良いか悪いかは別として、私はイヤである。強調するが、これは私が個人的にイヤだと思っているということであり、首相が参拝して良いか悪いかを言っているのではない。内閣総理大臣のような職にある人が、靖国神社を参拝すると、私が個人的に迷惑するので、やめて欲しいと、私は思っている。なぜ迷惑かを一応説明しておくと、私は韓国人の演劇やパフォーマンスに照明スタッフとして参加することが時々あるのだが、そのような韓国人とのつきあいがある中で、首相が靖国参拝をしたりすると、私が「日本人」であるということが人間関係にマイナスに影響することがあるのである。実際にまともに影響することはあまりないが、少なくとも、私自身は余計な気をつかわなければならない(雑談で時事問題を避けるとか)ので、私の負担は増える。したがって迷惑なのである。さてしかし、私は首相の参拝を止める権利も権限もない。私が小泉純一郎氏に対して使える権利は、選挙権というものすごく弱っちい権利だけである。

そういうわけで、首相の靖国参拝は私個人的には止めていただきたいと思っているわけだ。私が首相に対して言いたいことは以上である。しかし、ここで話を終えてはあんまりなので、参拝が「良いか悪いか」という話も、やっぱりちょっとだけしておこう。小泉首相が靖国に参拝した結果、何が起きたか。韓国や中国で抗議行動が起こっている。あたりまえだ、というか、予想されたことだ。ここで、なんでわざわざ海外から批判されるとわかっている参拝をあえてするのか、という参拝批判意見も当然あり得るわけだが、私はあえて、それは言わない。首相の参拝は、ある意味「仕方がないこと」だと思っている。小泉首相の参拝は彼自身の信仰によるものであり、宗教的な理由からおこなわれたものだと思うからである。

ここで一つ思い出してもらいたいことがある。オウム真理教(アレフに改称)のことだ。あの宗教団体は、かつて凶悪な犯罪行為を行い、そのことで大きな批判を浴びているが、それでもその後も信者として、信仰を捨てていない人が多くいるらしい。私自身は「信仰」というもの自体を全く持っていない人間なので、宗教的な気持ちについてはよくわからないのだが、靖国参拝も、批判されながらの信仰という点でオウムと共通するものがあると想像する。かつての軍国日本は、非常に凶悪で犯罪的とも言える行為を行なって、それが国際社会で大きな批判を浴びたが、その行為の原動力の一つとなった神社を、いまだに宗教的な理由により参拝している、ということに着目すれば、「オウム」と「靖国」とに類似が認められることは明らかである。

ちょっとふざけた国語の問題

○○○は、以前に、犯罪的としか言えないような残虐な行為をおこなってしまいました。しかしそれは、少数の誤った指導者が扇動した行為であり、末端の者はある種の宗教的な義務感で行動していただけなのです。今では私達はそれは誤りであったと深く反省しています。現在の○○○には全く危険性はありません。それを示すために今の私達にできることは、ただ静かに、純粋な気持で、犠牲になった方々の冥福を祈るだけです。

※上記の文の○○○の部分に、「日本国」を入れたり、「オウム」を入れたりして音読してみましょう。

繰り返して、断固言うが、「オウム」の問題と「靖国」の問題は、いずれも宗教の問題だという点が共通している。そこに目を向けるべきであり、また、そこから目を背けるべきではない、と私は思う。

私の結論:「靖国」は本質的には宗教の問題であり、政治や外交の側面だけから議論するべきではない。

テロとアメリカの報復

世論操作の話題
2001.10.9

今回のトピックはあくまで私個人の見解である。もちろんこの見解は私なりに調べた結果に基づいてのものなので、誤ってはいないと思うが、推論のみで証拠のない見解も含んでいる。誤解を避けるため、私のこの文を引用して、公共性のある場での議論や主張の証拠資料に使用することは、できれば避けていただきたい(リンクはかまわない)。これは権利の主張ではなく、あくまで「お願い」である。

昨日、アメリカ軍とイギリス軍がアフガニスタンへの攻撃を開始した。この件についての報道や世間での話題のされ方について、私は非常に違和感を感じている。

例えば、下記のような記述を読んで、どうお思いになるだろうか。はじめにことわっておくが、下記の記述は明らかな事実誤認も含んでおり、誤っている。

イスラム原理主義勢力のタリバンがアフガニスタンを支配しており、そのタリバンの中心人物にオサマ・ビンラディンがいる。今回のアメリカ同時多発テロはビンラディンの指揮により行われた。ビンラディンおよびタリバンは、アメリカをはじめとするキリスト教諸国の世界進出に抵抗しているという意味で、ある程度イスラム社会では支持する人もいるが、その執政内容は非常に高圧的・暴力的であり、宗教弾圧や女性差別なども行われている。アメリカは、同時多発テロへの報復として、アフガニスタンを支配しているタリバンおよびビンラディンを攻撃しているが、このような悪政をしいているタリバンを攻撃することは、単に報復としての意味にとどまらず、アフガニスタン国民にとっても国際社会にとってもメリットとなる。
最初に述べたように、上記の記述は誤りを含んでいる。しかしながら、私が恐れるのは、日本人の大部分が上記のような単純で誤った認識をしているのではないか、ということである。

このテロおよびアフガニスタンの件については、情報が非常に単純化されて流布されており、それが非常に問題だと私は思っている。大衆は複雑な洞察よりも単純な選択肢を好む。アメリカ側はそのことを利用して、問題を単純化させることにより大衆を味方につけようとしている。それは下記のブッシュ大統領の言葉に象徴される。

世界各国は我々に味方するかテロリストに味方するか(with us, or with the terrorists)決定しなければならない

これは、二つの選択肢を提示して、あたかもその二つが対立概念であるかのように見せかける手法である。この大統領の演説を聞くと、つい、今回の件は「アメリカVSテロ」の戦いだ、と思ってしまう。アメリカはそれを狙っている。実に見事な世論操作である。そして日本のほとんど全部の報道機関は、このアメリカの思惑(=日本政府の思惑)に沿って今回の件の報道をしている。

日本の報道だけから情報を組み立てると、今回の事件は、

ということになる。しかし、世界唯一の超大国アメリカが、「仕返し」なんて感情的な理由で戦争をするものだろうか。戦争とは、建物を爆薬で破壊し、人を殺傷するという、かなり無茶な行為である。それが果たして、普段は平和と繁栄を享受している豊かな国の、その中の富裕な人たちが、感情的な理由でやることであろうか。それよりももっと説得力のあるそれっぽい理由を探すべきではないだろうか。

報道にはあまり出てこないことだが、アフガニスタンというのは実はエネルギー資源戦略上の重要拠点である。世界のエネルギーはこれまで、中東の石油資源に大きく依存していたが、近年、カスピ海周辺に莫大なエネルギー資源が埋蔵されていることがわかってきたそうである。資源保有国の中に、トルクメニスタンという国がある。トルクメニスタンはカスピ海とアフガニスタンの間に位置する。トルクメニスタンは天然ガスを埋蔵しているのだが、それをアフガニスタン経由でパキスタンに運ぶパイプラインを建設する、という計画がある。このパイプラインの建設に関しては、莫大な権益が絡む。

そもそも、アメリカがタリバンを敵視するようになったのは今に始まったことではないし、もともとアメリカは、エネルギー資源の権益のために、アフガニスタンを支配下に置きたいのである。支配といっても別にアメリカ合衆国の51番目の州にする必要はない。見かけ上は独立を保たせたままで、アメリカに迎合する政府を作れば十分である。それは例えば、極東の軍事拠点として重要な日本に、アメリカに迎合する政府を作り、基地の提供などをさせているのと基本的に同じ手法である。なお、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したのも、おそらく同じ、経済的な理由だと思う。

今回の報道の中で上述のような経済的なメリット・デメリットが登場しないのは明らかに不自然であると私は思う。アメリカでの同時多発テロの真相はわからないが、テロの犯人がビンラディンで、それをかくまっているのがアフガニスタンのタリバンだから、アフガニスタンを攻撃する、なんていう、単純な話ではないことは確かだと思う。

カスピ海周辺のエネルギー権益を確保する目的で、アフガニスタンを攻撃して軍事占領する口実を作るため、ビンラディンの犯行に見せかけて、CIAがアメリカで同時多発テロを演出した、のかも知れない、と妄想するぐらいの想像力は持ちたいものである。CIAがやったというのはいくらなんでも妄想が過ぎるとしても、テロが起きることを事前に察知したが見逃した、ぐらいのことは、本当にあり得るかも知れない。1941年の真珠湾攻撃も、アメリカはわかっていてやらせたといわれているから、それぐらいの陰謀じみたことはあり得るのではないだろうか。少なくとも、「テロへの報復」などという子供じみた理由よりは説得力がある、と私は思う。

私の結論:この戦争は「テロとの戦争」ではない。
参考サイト
「誰が真犯人なのか!真珠湾を越える真珠湾」
アフガニスタン - 縛られた手の祈り
ディフェンス・ゼミ カスピ海周辺諸国のエネルギー資源を巡る最近の動向について
等。
(上記各サイトは2001年10月現在です。その後移動あるいは消滅している可能性があります。ご了承ください。)

仮説:無断リンクを禁止しても良い

リンクフリーに関する話題
2001.11.10

以前、「リンクの自由は憲法で保証されている」と主張する文章を書いた。それを書いた当時は、リンクは必ずしも自由ではないという主張もまだ根強くあり、それに対抗する意見を提示することは、ネット上の議論としてある程度の有効性を持つと思われた。しかし、この数年で状況は少し変わったようである。もちろん現在でも、リンクする際は事前に許可をとるように、と主張するサイトはあるが、それらはもはや少数派で、今や、リンクは自由というのはネット社会の常識となっており、「リンクフリーといちいち書かなければならないご時世のほうが問題だ」というような主張も多く見かけるようになった。

ところが、である。この時代の流れに乗じて、次のような恐ろしい主張が存在しているのを発見した。

「無断リンク禁止」という行為こそが、禁止されるべきである。

リンクは自由なものであり、「無断リンクを禁止します」という主張は誤っているので、そういう主張は禁止するべきだという考え方である。「無断リンク禁止を筆頭とした、ふざけたリンク禁止を禁止する会」というのも存在するようである。ただしこの会は特に実効性のある活動をしているようには見えないので、この会自体を批判しようとは思わない。問題は、このような会の主張を、つい「そうだそうだ」と賛同してしまう人たちの心理である。

私は、以前と変わらず、リンクは自由であるべきだと考えているし、「無断リンク禁止」という主張は無効だと思う。しかし、だからといって、無断リンクを禁止する行為を禁止して良いとは思わない。

これらは全て、関係はしているが、別の問題である。これらはしっかり区別して議論されなければならない。私は「無断リンク禁止こそを禁止するべきである」というくだんの会の主旨には、断固反対する。リンクは完全に自由であるべきだが、逆に無断リンク禁止というのも禁じるべきではない、ということだ。わかっていただけるだろうか。この私の主張を、単に「矛盾している」としかとらえられない人が多いとすれば、それはとても恐ろしいことである。

仮に「無断リンクは禁止します」というページがあったとする。そういうページに対しても、リンクしたいと思ったら私は勝手にリンクする。そのページは、リンク禁止を主張しているが、しかし実際は誰でも勝手にリンクして良い。なぜなら、無断リンク禁止という主張は「無効」だから。リンク禁止と書いてあろうが、リンクしたいというものを誰も止めることはできない。リンクの権利は憲法で保証されているからである。

しかし一方、全く同様に、「無断リンク禁止という主張」をする権利だって保証されねばらなないと私は思う。「無断リンク禁止という主張」は、たしかに私の主張とは対立する。対立しているから私は受け入れない。だから「無断リンク禁止」と書いてあるページにも必要とあらばリンクする。一方、「無断リンク禁止」と書いてあるサイトが存在できることは、喜ばしいことであると思う。「無断リンク禁止」という表記や、そのように表記したサイトが、不当に抹殺されるようなことがあってはならない。複数の対立する意見があり、それらの主張の間で議論が展開されてこそ、ネットの価値観が健全に培われていくと思うのだ。

私は、リンクは自由であると主張する。法的にも、リンクは自由だという考え方が主流である。しかし、本当は違うかもしれない。リンクは無制限に自由ではないほうが良いかも知れない。私だって人間だから、何か見落としがあるかも知れない。だから場合によってはリンクに制限をかけたほうが良いという考え方だって、可能性としてはあり得ると思えるのだ。少しでもあり得る考えを主張する権利、これこそが言論の自由が保証するところではないのか。自分の権利を主張するあまり、他者の権利を侵害することがあってはいけない。

反対意見の可能性も認めた上で、私個人は、リンクは自由だと信じているし、そのように主張する。ひょっとしたら違うかも知れないという可能性も考慮しつつ、やはり自由なのだと主張する。それで十分ではないか。主張したい者はどんなことでも主張すればよい。しかし、いくら自分の意見が多数派だからといって、いくらそれの法的根拠が強いからといって、反対の意見を禁止する権利は誰にもないはずだ。

何か主張をするなら、それなりの責任、あるいはリスクを負うべきである。主張というのはそういう行為だと私は思う。反対意見に対しては、真摯に議論をするべきである。それなのに、議論を嫌い、反対意見は禁止してしまえば良いという態度、自分たちが多数派であるからと言って、逆の考えを抹殺しようとする態度、相手の発言機会を奪っても何とも思わない無神経。安易な、思考停止の、多数派の横暴。悲しいことに、こういった多数の暴力をさまざまな場面で目にし、耳にすることが少なくない。しかしこのような態度には、私は断固反対していこうと思う。

私の結論:「無断リンクは禁止」と主張する自由もまた、憲法で保証されている。

千代田区の禁煙条例

たばこと行政に関する話題
2002.11.21

東京都千代田区で、路上を禁煙にする条例(正式には、「安全で快適な千代田区の生活環境の整備に関する条例」)が施行されたそうである。例によって、喫煙者は反発したり泣き寝入りしたり、嫌煙者は賞賛したり増長したりと、まあそれはそれで勝手にやっていただくぶんにはかまわないが、喫煙VS嫌煙という伝統的構造にガッチリはまった形の議論にほとんど終始しているのは、ちょっと残念な気がする。

なお、私自身のたばこに対する考えは「喫煙者を救え」を参照されたい。

そもそも、千代田区がなぜこのような条例を作ったのか。区民の要望? 違反した喫煙者からの罰金としての増収? それもあろう。しかし、条例や法律が新たに導入される際に、まずその理由として疑うべきなのは、「これを利用して誰かが商売していないか?」という点である。今回で言うと、千代田区ではこの条例を根拠として道路に禁煙マークが描かれたり、違反者がいないか巡回する監視員が出動したりしているらしい。道路にマークを描くのはお金がかかる。巡視員には人件費がかかる。その予算はどこから来るか? 当然、千代田区の区民税=税金である。

この不景気の世の中、一般消費者がなかなかモノを買ってくれなくて企業は困っているわけだが、その状況の中、確実にお金を払ってくれているのは、行政である。一般消費者はモノは買わないくせに、税金だけはきちんと払っている。だから行政だけは安定して資金を持っている。だから、このご時世、行政相手にうまく商売したものが勝ちであることは間違いない。要するに、税金をいかに「正当に」消費させるか、ということが企業としての勝負となるのだ。その意味で、環境保護や禁煙といったことは、いかにも「正当くさい」。そういった「正当くさい」ことには税金を使ってもあまり反感を買わないから、予算化しやすいということが言える。

さて、ではこの条例のカラクリはどうなっているのか。証拠がないので断言はできないが、この条例が成立した経緯の予想をすることぐらいはかまわないであろう。おそらく、仕事が欲しい企業(道路に禁煙マークを描く会社か、巡視員を派遣している会社か、その他か、その全部が協力してかはわからない)が、千代田区の行政あるいは区議会議員にエサを与えて(天下り先の確保、政治献金等)お願いし、条例を作ってもらったのではないだろうか。そう考えるのが辻褄が合うように私には思える。この条例は、施行されれば喫煙VS嫌煙の議論の大合唱になることが確実で、利権構造を隠すにはもってこいである。

だいたい、区民の健康とか環境とか、そんな一円のお金にもならないことのために、自ら反感を買うような行動をする役人や議員が、いるわけないとは思わないか。他人のために自分を犠牲にするような精神性を持っているのは、一般庶民だけである。

私の結論:ケンカを見物しながら利益を得ている連中がいる。

左利きは身体障害か

身体障害に関する話題
2004.6.1

もちろん違う。「左利き」は身体障害とは言えない。私の女房も左利きだが、彼女は「身体障害者」ではない。今さら言うまでもなく、法律や医療現場において「身体障害とは何か」についてはある程度明確に定義されていて、「左利き」はその定義に合致しない。したがって、左利きは身体障害ではない。しかし私はそんなつまらない結論を確認するためにこの話を始めたのではない。私はここで、「身体障害の定義」について議論するつもりは全くない。「身体障害」という言葉を見たり聞いたりしたとき、誰でもある「イメージ」を持つと思う。あなたが今持ったそのイメージは、多かれ少なかれ、身体障害の「定義」とは、ずれているはずである。私が問題にしたいのは定義ではなく、そのイメージのほうである。「身体障害」と聞いて、あなたは、私は、なぜそのようなイメージを持ったのか。そこを考えてみたいと思う。

仮にある人が、「左利きは身体障害だ」と発言したとする。そのような発言をした人は、左利きというものをどのようにとらえていると、あなたは(あるいは世間は)考えるだろうか。下記の内から選んでみてほしい。

  1. その人は、左利きを差別している。左利きに対して偏見を持っている。
  2. その人は、左利きに対して中立・公平な見方をしている。
  3. その人は、左利きを偏重している。左利きに公正以上の権利を求めている。

ちょっと誤解を招きそうなので繰り返すが(ぜひしっかり読んでいただきたい)、左利きが身体障害だと思うかどうか、を問いたいのではない。「左利きは身体障害だ」と発言した人が仮にいたとして、その人のことをあなた自身はどう思うか、世間はどう思うか、という質問である。

さて答えだが、結論を言ってしまうと、1〜3のどれもあり得る。この質問への答えは、左利きや身体障害に対する偏見の多少によって1〜3のどれにもなり得る、というのが私の考えだ。私の推論では、昔は2を回答する人が多かった。それが、時代が進むにつれて、多数回答は2から1へ変わり、さらに1から3へと変わっていくと考えられる。障害者の権利が十分に守られ、障害者福祉が十分に充実した社会が実現したら、世間の回答は3に落ち着くに違いない。

近代化が成る前の昔、左利きは本当に身体の障害だと考えられていた。つまり左利きは「不運なこと」であり、「不自由なこと」であった。そればかりか、「不吉なこと」とすら考えられることさえあった。だから、左利きは「矯正」をさせられた。そのような時代にあっては、「左利きは身体障害だ」というのが、左利きに対する一般的で公正な見方であり、世の中の多くの人は、上記の質問に対しては2を回答したと考えられる。

もう少し時代が進むと、左利きは障害ではなく「普通のこと」と考えられるようになった。左利きは無理に矯正する必要はなく、左利きは左利きのまま、右利きの人と同じように日常生活を送ることができてしかるべし、と考えられるようになった。今まで右利きだけに使いやすいように作られていた道具や設備には改良が加えられ、左利きの人も「不自由なく」使えるような工夫がなされた。この時代にあっては、左利きの人は左利きであることを「不運」だとは思わないし、「不自由」だとも思ってはいない。それを矯正しようとも思わない。だから、「左利きは身体障害(だから矯正する必要がある)」というような考え方は時代遅れであり、左利きに対する偏見だととらえられる。この時代の人の多くは、上記質問に対して1を回答すると考えられる。この時代は「身体障害」という言葉はまだ悪い意味を持つ。21世紀初頭である現在は、ここにあたるかもしれない。

さらに時代が進むと、障害者の福祉について世間の理解が進み、その権利がきちんと保証された社会になる。そのような時代にあっては、「障害者である」とはすなわち、行政や公共機関によるしかるべき補償を受ける権利を持つ、ということである。障害者は、まだまだ日常生活に不自由はあるものの、それ相応の補償を受けることで、障害の無い人と変わりなく社会活動に参加することができる。この時代では、「たかが左利き」を身体の障害などと大げさな言い方をするのは誤りだととらえられる。障害とは、社会で保護しなければならないレベルの人に使う言葉である。しかるに、左利きに対して特別な保護措置など必要はない。左利きは身体障害(だから特別に保護すべき)だと言うのは、左利きを偏重しすぎた発言である。この時代の人の多くは、先ほどの質問に対しては3を回答すると考えられる。この時代では「身体障害」は必ずしも悪い意味ではなくなっている。

もっと時代が進むと、目が見えない、耳が聞こえない、手や足が使えない、といったことも、左利きと同様、全く「普通のこと」と考えられるようになる。昔は、左利き、目が見えない、耳が聞こえない、手や足が使えない、といったことは、どれも「不運」で「不自由」な「障害」であった。しかし、この進んだ時代では、それらの人も生活に不自由は無い。だから、左利きでも、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、本人はそれを「障害」だとは思っていないし、それを治したいとも思わない。そのままで幸せで便利な人生を送っているからである。このような時代には、「身体障害」という言葉そのものが消滅している。左利きも、視力や聴力がないのも、手や足を動かせないのも、単なる身体的な特徴にすぎない。それまで、目が見えて手が動かせる人だけに使いやすいように作られていた食器やステーショナリーには改良が加えられ、目が見えなくても、手を使わなくても何不自由なく食事が出来るようになっている。かつて左利き用の道具が多く開発されたように、視力や聴力のない人、手足が使えない人のための道具が、数多く開発され、使用されている。

と、私の妄想は広がるわけだが、賢明な読者ならおわかりのように、話はそう単純ではない。「右利き」と「左利き」は対称だが、「障害」と「健常」は対称ではない。そこがこのSFのトリックであり、そこに破綻がある。左利き用のツールを作るには、ほとんどの場合、右利き用のツールを単純に鏡像変換すれば良い。しかし、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由のためのツールは、そのような単純変換ではできない。ツールが簡単にできないからこそ、「人の助け」がどうしても必要になる。残念ながら、左利きの例を単純に障害者問題に応用することはできない。

しかしである。技術的な問題はまだまだ困難を極めるとしても、イメージや偏見など、人の精神による事柄については、今すぐにでも改善を始めることができるはずである。左利きがかつては身体の障害と考えられていて、現在はそうではなくなっているという事実には、障害者に対するイメージや偏見を改善していくための重要な示唆が含まれていると、私は思う。

私の結論:障害への偏見が無くなったとき、それは障害には見えないはずである。


岩城 保(Tamotsu Iwaki)
iwaki@letre.co.jp